読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

MENU

「世界は僕を特別扱いしない」から始まる自由。『不自由な男たち――その生きづらさは、どこから来るのか』小島慶子・田中俊之

 まったく。年齢性別、所得の多寡や家族の有無にかかわらず、生きづらい世の中ですね。

 一若者としては、この先幸せになれる気がまったくしない。今日という日をだましだまし生きて、歳をとり、そして死んでいくのだろうなと思う。
 


『不自由な男たち――その生きづらさはどこから来るのか』という新書を読んだ。自らの生い立ちを、主に(毒)母との関係から赤裸々に描きだしたエッセイ『解縄』の著書である小島慶子と、「男性学」の第一人者である田中俊之との、対談集である。
 テーマは男の生きづらさ。
 対談集という形態とそのテーマから感情論に傾きそうなものだが、この本は「生きづらさ」が生み出されるこの社会のシステムをあぶりだそうという試みであるようだった。面白く読んだ。

はじめに(小島慶子)
第1章 その呪縛は、どこから来ているのか
第2章 男に乗せられた母からの呪い
第3章 男と女、恋愛とモテ
第4章 育児をするということ
第5章 新しい働き方
第6章 不自由から解放されるために
おわりに(田中俊之)

 特に問題提起をしている第1章と、生きづらさの根本的な原因としての母の期待について書かれた第2章が面白かった。少し抜き出してみよう。

 まずは第1章。田中氏は幼いころから、サラリーマンとして働く自分について意識できなかったという。その思いは、次のような疑問につながった。

田中 僕は結果的に研究者になったわけですが、社会学の観点から、どうして多くの男性は、フルタイムで四十年間働き続けるのが当たり前という常識を、自然に受け入れられるのかを明らかにしたいと考えています。大学を卒業してフリーターをしていると、「あいつはブラブラしている」と後ろ指をさされるでしょう。そんな酷いことを言われてしまって当然という社会の仕組みって、いったいなんだろうと思ったわけです。

 確かに。言われてみれば、フルタイムで四十年間働くのは、誰からも強制されているわけではない。しかし私もこの本を読むまで、働き続けることに、なんの疑問も抱かなかった。
大学、就活、四十年間の労働、とそれは一直線の道のように思っていた。

田中 僕がどうしてこの研究をしているかという話に戻るのですが、そもそも四十年にもわたって縛られることをなぜ男性側が問題にしなかったかと思うわけです。これはすごい仕組みですよ。

小島 すごい仕組みですよね。おかしいと思う人がいてもよさそうじゃないですか。

田中 いてもいいし、体を壊す人がいても当たり前です。実際に、心を病む人や自殺する男性はたくさんいるわけですが、そういった犠牲を社会は直視していない。男性として生きる身としては、単純に恐ろしいと思います。

 そしてその仕組みの維持装置として働いているものは、家のローン、結婚、会社であるという。一度ローンを組んでしまえばもちろん返すまで働き続けなければいけないし、結婚したら家族を養わなければいけないし、会社で働けばなかなか辞められない……これらは男が男にかける呪いであるという。

(小島)誰でも辞めたいと思うことは一度くらいありますよね。でもだいたいは、いろんなことを考えて踏みとどまる。つまり辞めようと決心した人の気持ちは、辞めない人には一生わからないわけです。そしてこの「辞めない人たち」は、「辞めようとする人」に、「お前なんか絶対不幸になる」と言い続けるんです。それは自分が踏み出せない一歩を踏み出す人に対する嫉妬かもしれないし、その人が捨てていく会社員という立場のままでいる自分を否定されたと思うからかもしれません。

 既婚者は独身者に結婚を勧め、一軒家を建てた人はマイホームの良さを語り、転職を迷う人には「転職なんてしたところで、今より待遇が悪くなるだけだ」と言ったりする。結婚なんて個人としたらしてもしなくともよいし、家だって買っても借りてもよい。職業選択の自由憲法第22条で保障されている。私たちには選択の自由があるはず、なのだ。


第2章では、このような苦しく不自由な状況にいるのに、なぜそのことに無自覚なのか、ということを考えていく。ここで出てくるのが「母」、それも「全能の母」である。日本の一時期、夫は会社出稼ぎ、家のことは妻に丸投げ、というのが普通であったころがあった。子育てをすべて任された妻は大変だ。子どもにとっても身近な大人が母親一人だけであると、その母親を相対化できず絶対視してしまう。その結果として、子供の価値判断の基準が「母」になってしまう。

小島 ママが息子にシールドを張ってるんです。ママが神様であり続けるために、息子にかけた呪いでもある。子どもが最初に出会う世界は、ママですよね。「いつでもママが守ってくれる」。それはきれいに言えば、世界に対する信頼感のようなものです。けれど成長とともに、「母親は世界の一部に過ぎないし、母親の言っていた原則など世界の原則でも何でもない。自分は特別に守られているわけでもないのだから、しっかりしなきゃな」というふうに理解していかなければならない。
 そうやって、どんどん母を「殺して」いかなければいけないのに、ママが殺されたくないばっかりに、息子にいろんな呪いをかけて君臨したままだと、息子は大人になっても無意識のうちに、「ママがそうであるように、世界は僕に悪いことをしない、僕を守ってくれる」と考え続ける。これがママシールドです。

(小島)大人になるというのはつまり、「俺がどれだけ世界を勝手に信頼しようと、世界の側から見たら俺なんて物の数でもない」と気がつくということです。

(小島)もちろん「世界は僕を特別扱いしない」と気づくのは、殺伐とした砂漠に投げ出されることでしょうけど、ママのヒーローをやめるっていうのは、自由になることでもあるんですよ。

 「母親殺し」をして大人になることで、自由を手に入れる。すなわち、自分の思考のもとにあるものを客観視して、その中にある親や社会の影響を冷静に判断する。そしてそんな自分を踏まえたうえで、自らの頭で考えて、自らの人生を切り開く。
 この後の章では、自由の形について、恋愛や子育てを通して語られていく。

 この本は読みながら、自分の母親にぜひとも読んでもらいたいと思った。
 私と弟はすでに成人しているが、両親の期待したような大人にはなれなかった。しかしそれは私たち自らが選択して、自らの人生を歩んだ結果である。「期待通りの大人にならなかった」=「子育ての失敗」ではないということを改めて知ってもらいたい……というのは、子どもの傲慢だろうか?


 本の題名には「男」とあるが、この「不自由」の問題は女も無関係ではいられない。男の生きづらさと女の生きづらさは表裏一体だ。本書の冒頭で小島氏はこう言う。

 男が不自由でいる限り、いくら「女性の活躍を」なんて言っても絵に描いた餅です。「女性も男性並みの不自由を」って言っているのと一緒ですから。

 誰もが生きやすい世の中、自由な世の中を目指す。男だ女だ、ということは置いておいて、個体としての幸せを目指す。個体としての幸せが確立できる社会を目指す。そのためには、まず、自らのうちにある「呪い」を自覚する。自覚したのち、それを克服する。克服できなくとも、自らがその「呪い」を、他者へ強要しないようにする。まずは、そこから始めようと思う。

不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか(祥伝社新書)

人生時計。人生=24時間だとすると、一日は何分?

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary


 風邪をひいた。鼻風邪だ。早く治したいので、普段より早く布団に入って寝ようとするのだが、鼻づまりと喉の違和感でなかなか寝付くことができない。おかげで寝る前読書が捗る捗る。ウエルベックの『プラットフォーム』、面白い。思わず徹夜読書したくなるほどの面白さだ。

 
 風邪ぐらいではなかなか会社は休めない。今日は出勤日だったが、風邪のせいか、そもそもの私の性質のせいか、仕事に集中できず、考え事ばかりしていた。
 ふと「人生時計」が頭に浮かんだ。
 もしも人生が24時間だったら、今は何時にあたるのか、というアレだ。初めて言い出した人が誰かということは知らないが、私は中学校の卒業式のときにこの話をはじめて聞いたように思う。15歳、3で割ると、朝5時だ。まだまだ自分の人生はこれからだ、そう思った。
 今年、26歳になった。3で割ると、8時40分。出社して、朝のミーティングが終わるか終わらないかぐらいの時間だ。何とも言えない。けれどもまだ、なんでもできる時間だ。

 年齢を3で割る、ということは、人生を72歳であると仮定してのことだ。最近は、平均寿命を元にして、3.5で割るということもあるらしい。84歳まで生きること仮定していることになる。26歳を3.5で割ると、7時半前になる。部屋の中で慌ただしく出社準備をしているころだ。
 もっとも健康寿命というものは、男性が71.11歳、女性が75.56歳だというから、3で割るというのは、なかなかうまく出来ているのかもしれない。

 両親の年齢を3で割ってみる。19時。残業がなければ、家に帰って夕食にする時間だろうか。
 米寿を迎えた祖父は、24時をぐるっと回って、朝の5時過ぎか。徹夜して、5時まで起きてりゃ、そりゃあ調子の悪いところも出てくるわな。

ところで。

 一生が24時間だとすると、一日は何分だろうか。

 3年=1時間
 1年(=365日)=20分(=1200秒)
 1日≒3秒

 3秒か。一瞬、ではないが、一生のうちでは一瞬に限りなく近い。
 3秒を大切にしているか、というと、なかなかしていない。ぼおっとしていたら、あっという間に過ぎてしまう時間だ。
 でも私たちの人生は3秒の集積に過ぎない。いかに3秒を、一日を大切にするかということが大切なのだろうとは思う。まあ結局、3秒の何倍もの時間をかけて、こんな雑文を書くことに大切な人生を費やしてしまっているのだけれど。
 

 5年後、私は31歳。10時20分。まだまだ午前中。休日のことを考える。まだその日一日をどう過ごすべきかと布団の中で考えていることもあるくらいの時間だ。まだまだ遠出だってできる。計画を変更してやっぱり引きこもっていよう、とか、引きこもってばかりなのもあれだしとりあえず図書館へでも行こうとか、一日はまだまだ長い。

 10年前。16歳の私は何にでもなれると、本気で思っていた。
 5年前。21歳の私は、大学の研究室選びを通して、その先に規定される将来を見極めようとしていた。
 5年後。31歳の私は、たぶんこの地にはいないだろう。どこにいるかは分からない。何になれているのかも分からない。でも私の可能性は、16歳のときと同じように全方向に広がっているのだろう。

 人生を悲観するのはまだ早い。

プラットフォーム (河出文庫)

『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。他人に支配されず自由に生きる技術』安冨歩著

 相変わらず迷ってばかりいる。

 そして相変わらず、「自分は自尊心が低いのではないか」と思ったりしている。自分と友人との差をみては、私になくて彼彼女らにあるものを考え込んだりしている。
「生きづらい」「自己嫌悪」というキーワードに惹かれ『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。他人に支配されず自由に生きる技術』という本を手に取った。

プロローグ 自己嫌悪は、「自分が劣っているから」感じるわけではない
第1章 「自己嫌悪」は何を引き起こすのか?
第2章 なぜ「自己嫌悪」があると、仕事がうまくいかないのか?
第3章 「自己嫌悪」の正体とは何か?
第4章 「自愛」に向かうために、できいること

 そういえば、と思い出す。
 高校生くらいまで、私は私のことが大好きだった。それがいつの間にか「自己嫌悪」が増えていき、大学を出る前あたりには自分のことが大嫌いな人間になっており、「自分の人生は失敗だった」という言葉が頭から離れなくなった。自意識過剰な人間なのだ、私は。
 それにしても同じ自意識過剰なら、「自分大嫌い」よりも「自分大好き」の方がよかった。著者は「「自己愛」は、もはや言うまでもないかもしれませんが、「自己嫌悪」の裏返し」とはっきりと言っており、それはその通りだな、と思うのだけれど。

 この本には「立場主義」という言葉が出てくる。立場主義とはなにか。「「立場主義」とは、「立場」を守るために、なんとしても「役」を果たそうとする精神」であると著者はいう。

 そもそも、「立場」や「役」はなぜ必要なのでしょうか。

 会社員としての私。
 部長としての私。
 父としての私。

 こうした「立場」を求めるのは、自分自身に不安を感じるからです。

「自己嫌悪の引き起こす不安」から逃げる手軽な方法のひとつは、○○としての私、という枠を自分にはめ込んで、それを演じられたら、「自分のアイデンティティが確立された」と思い込むことです。

 
 枠に自分を当てはめて、思考を停止させる。社会人となり「会社員」という立場を手に入れた。少なくとも会社にいる間は、自分は「会社員」という役割を果たしていけばよい。そこに個人の生き方に対する疑問なぞ、挟み込む余地はない。
 しかしふと、社会的な立場や対人関係上の立場を離れた個人としての私を意識する瞬間がある。自分が何者であるのか分からなくなる。

 私は何が好きなのか。
 何を恐れているのか。
 何を望んでいるのか。
 私はどこへ向かっているのか。

 私は今も迷ってばかりだ。

あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。 他人に支配されず、自由に生きる技術