読書録 地方生活の日々と読書

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100%純愛映画を見て純愛について考える。 高橋泉監督『ある朝スウプは』【映画感想】

 就活をしている。

 先週の日曜日のこと。とある会社の選考会へ行き、筆記試験を受け、落ち込んで帰って来た。
 
 研究室へ行かないと、と思いながらもどうしても行く気がしない。
 それでは図書館にでも行こうかとも思ったが、こちらもどうも行く気がしない。
 そういえば米がないので買い物にも行かなければならなかった。
 けれどもやはり、部屋から出たくない。結局、部屋に引きこもったままその後の半日を過ごした。

 疲れた日は受動的に映画鑑賞するに限る。以前に借りていたDVDの中から、高橋泉監督『ある朝スウプは』を選ぶ。
 ベッドに寝転がって、ただ、みる。

感情移入。

 同棲カップルの日常を描く作品である。ただ、この映画には恋愛中の男女が享受すべき日常の幸せはない。日常に潜む罠に囚われてしまった男女の悲しみが溢れている。
 物語は、彼氏北川が医師の診察を受けるシーンから始まる。下された診断は「パニック障害」。電車に乗ることができなくなってしまった北川の引きこもり生活が始まった。彼女志津は彼を暖かく見守ろうとする。それが十月。
 二人の歯車は徐々にかみ合わなくなる
 一月から四月にかけて、北川と志津の間にコミュニケーションの齟齬が広がっていく。ある日、志津が帰ってくると北川がいない。そして部屋に置かれた黄色いソファー。やがて北川が新興宗教にのめりこみ、生活費を使いこんでいたことが発覚する。「カルマが」「このソファーは羊水と同じ原子からできていて」。新興宗教にはまったことがバレた北川は、志津も入信させようとする。真顔で説教を繰り返す北川はひたすら気持ち悪い。どうして良いのか分からない志津。
 でも志津は病気の北川を決して見捨てない。

 このあたりから、志津に感情移入しまくっていた。コミュニケーションを成立させようとはしない北川に怒りを覚えた。
 新興宗教の洗脳を受けた北川にとっては、「カルマ」を頭から否定する志津や私こそがコミュニケーションを図ろうとしない悪者なのかもしれないが。二人のコミュニケーション不全は、結局、映画の最後まで解決しない。志津が無職になったり、北川が医者通いや薬の服用を拒否したり、先輩信者が訪ねてきたりといろいろあった。
 しかし波乱万丈な半年間を過ごしても、北川は「カルマ」を繰り返す。

「他人なんだね」

 そして朝食を食べながらの志津の言葉で映画は終わる。
 二人で生活し、二人で向き合って朝食を食べていても、二人は分かりあうことができない。

100%純愛映画

 観終わって、しばらく茫然としていた。気を取り直してボーナストラックを見た。
 予告映像には「100%純愛映画」とあった。
 どこが純愛だったのか、と思い再び茫然とした。

 幸せだったころの北川と志津の関係がこの映画には書かれていない。だからだろうか。北川の魅力が何一つ伝わってこないのだ。結婚もしていない関係なんだし、さっさと別れてしまえばいいのにと思った。

 共依存、という言葉も浮かんだ。しかし志津が北川に依存しているようには思えなかった。ますます志津が北川と暮しているのか分からなくなった。

 次に浮かんだ言葉は「大人のお守は大変だな」というものだ。北川が駄々をこねる子供のように思えたのだ。子供には大人の理屈が通じない。大人の理屈を理解しようとせぬまま、子どもの理屈を押し通そうとする。
 新興宗教に救いを求めた北川にも、志津の言う社会の理屈が通じない。二人はいつしか使う理屈が違ってしまったのだ。異なる理屈で話された会話は、いつまでたっても平行線のまま、互いの心には届かない。会話を重なれば重ねる程、二人は深い孤独に墜ちる。

 理屈の通じない相手、こちらの理屈を理解しようとはしない相手を愛することはできるのだろうか。
 分からない。
 私には二人の関係が、愛ではなく、情によって支えられているようにみえた。主に志津からの情に。北川からの感情は良く分からない。ただ、志津よりも新興宗教をとった。自らの信ずる理屈が通じる方へ。

 二人が幸せになることはあるのだろうか。
 つまり同じ理屈で話せるようになるのだろうか。
 分からない。
 ただどのような理屈を信じるために選ぼうとも、そこに上下や正解不正解はないこともこの映画は教えてくれる。

 ところで。何故か、最後の朝食シーンを見た時に、他人と暮すのっていいなと思ってしまった私もいる。1k8畳和式トイレ洗濯機廊下置きの安アパートでも。これが純愛100%映画のなせる技なのか。