古川日出男のショートショート 『夏が、空に、泳いで』
本に書かれた情景が、日常のふとした瞬間に立ちあがってくることがある。まるで白昼夢のように。あるいは。ある単語が思い浮かんだと思えば、その単語は脳内を漂い、やがて単語は意味を持った一節となり、そして私はかつて読んだことのある本の題名に思い至る。
それらの本は、夢中になって読んだ本ばかりではない。
何気なく読んだ一節は、しかし、何らかの感動を伴って私の中に引っかかる。
そして思いだす。思いがけない時に。その一節の書かれた本を読み返したくなる。
よく思い浮かぶ情景の一つに次のようなものがある。
夏の晴れた日。
学校の屋上。
壊れた給水塔。
その中に泳ぐ色鮮やかなの熱帯魚たち。熱帯魚たちは日本の夏の太陽光をその鱗に反射させながらゆらゆらと漂っている。
古川日出男の掌篇集『gift』の中に収められている一篇『夏が、空に、泳いで』。
『gift』は情景が思い浮かぶたびに読み返したくなるのだけれど、部屋のなかの本の山に埋まっておりなかなか探し出せなかった。が、このたび思い切って発掘して読み返した。
『夏が、空に、泳いで』の色彩
この本に収められた小説はどれもごく短い。『夏が、空に、泳いで』もそうだ。文庫にて ページ。あっと言う間に読み終える。
そして私が思い描いた情景は、小説内の描写とは異なっていることに気付いた。
引用してみる。
もちろん、水があった。たっぷりあった。それから、内部にしつらえた蛍光灯があった。太陽光ではない、その灯りであたしは見た。色彩がむれていた。大小さまざまに、あるいは郡泳して、あるいは単独で泳いでいた。
そう、熱帯魚を照らすのは7月の陽光ではなく、蛍光灯の光だったのだ。それはそうか。太陽の光に直接晒されるなんて物語の中でも理屈に合わない。
けれども私の中では物語の中を泳ぐ魚は、無機質な白い光ではなく、様々な表情を持った太陽の光に照らされている。一度確立したイメージはなかなか訂正されてくれない。
この物語から喚起されるイメージが強いからか、私の中で古川日出男は鮮やかな色彩を持つ作家である。
一般的には「音」のイメージが強い作家なのではないだろうか。
文体のリズム感。『南無ロックンロール二十一部経』などの作品群。
私は『ベルガ、吠えないのか』が大好きなのだが、時々「犬、犬、犬、犬たちはどこにいる?」とその独特なビートにのった一節が心の中に流れてくる。
しかし古川日出男は、「音」の作家であると同時に「色」の作家でもあると私は思う。
デヴュー作『13』も鮮やかで印象的な色彩に溢れていた。その色彩は暴力的ですらあった。久しぶりに読み返したい。
ちなみに単行本の『13』の表紙はアンリ・ルソーの「蛇使いの女」。ジャングルの湖畔で蛇使いの女が横笛を吹いている絵。これが文庫版だとピカソの女の人の絵に変わる。昔、アンリ・ルソーの絵本が家にあった影響か、アンリ・ルソーの絵の方が好きです。
原田マハ『楽園のカンヴァス』の表紙もルソーなので、本屋で見かけるとついつい目を止めてしまう(未読だけど…)。
ブックデザインも勉強したら楽しいんだろうな。