読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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なんだかんだで3周年。世界の片隅で、弱小ブログは続いてます。

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

はてなブログが5周年らしい。

と、思ったら、このブログも今日11月18日で3周年を迎えていた。最近追加されたこよみモードで知った。

ある日、本当に急に思い立って始めたブログ。
思い立ったら善は急げと、その日のうちに登録し、ブログを立ち上げた。
自分の唯一の趣味であり、人生を通してただ一つ続けることができている「読書」についてなら、ブログを書き続けることができるのではないかと思った。
当時は、人生において一番本を読んでいた時期であり(週に2、3回図書館に通っており、年間250冊以上は読んでいた)、好きな本をテーマにしたらネタに困ることはないだろうと思った。
タイトルを考えるのももどかしく、とりあえずシンプルに「読書録」とブログタイトルをつけた。
そうして、毎日はてなのサイトを確認する日々が始まった。

この3年間、いろいろあった。
ほんとうにいろいろあった。私は3年分しっかりと歳をとった。3年分の本を読んだ。ブログには記事がたまった。
就職という人生の節目もあった。引っ越しもして、今は3年前は名前も知らなかった田舎町に住んでいる。
成長した部分もあれば、そうでない部分もある。
多少は世間を知った気もする。
が、2年前3年前の自分で書いたブログ記事を読むと、当時と考え方がほとんど変わっていないことに愕然としたりもする。

書評とはなにか、ネットで読書感想を発信することの意義や責任や無責任さについて考えたときもあった。
就活についての怨念を、キーボードに乗せて一気に書いた記事もあった。
自分の「恥部」である本棚だって、勢いに任せてさらしてしまった。
読書傾向も変わった。海外文学やSFや現代詩を読むようになった。

5か月間、ブログを書かない時期もあった。
5か月後、記事を書くと以前のようにスターをつけてくれる読者の方がいた。単純に、うれしかった。

5年後、私はブログを続けているだろうか。
続けていてほしいな、と思う。
ここには確かに、私の人生の軌跡がある。読んだ本こそが人生を作るのだ。


dokusyotyu.hatenablog.com

↑記念すべき最初の一行。

風呂読書と自己否定 つげ義春『新版 貧困旅行記』

 11月。十分すぎるほど寒くなってきた。寒さに耐えられない夜は、ガス代を気にしつつ湯船にお湯を張る。
 せっかく湯船に湯を張るという贅沢をするのだから、風呂の時間をめいっぱい有効に使いたい。となると風呂に文庫本を持ち込むに限る。風呂読書についてはこのブログに何度か書いた気もするが、社会人になってからその頻度が、がくんと落ちた。この夏場はシャワーのみで済ませることが多く、月に一度くらいまで湯船の出番は減ってしまった。さすがにシャワーを浴びながら本は読めない。
 昨夜もガス代と湯船につかり体をじっくり温める幸せを天秤にかけつつも、給湯器のスイッチを入れた。
 相棒はつげ義春『新版 貧困旅行記。そのタイトルと、多数収録されているいかにも「昭和」な田舎の写真に惹かれて買ったものだ。

 わたしは、湯船の三分の一を覆うように湯船の蓋を置き、そこを読書台替わりにしている。
湯につかり十分にあったまり、旅行記も区切りの良いところまで読んだので(猫町紀行』『猫町紀行あとがき』という荻原朔太郎にインスパイアされ、道に迷うためにドライブするエッセイを読んでいた)、体を洗おうとしたときのこと。いつものように湯船の上の蓋に本を置いた。そして湯から出るために態勢をかえた。そのとき。
 目の前が崩壊した。
 目前の湯船の蓋が傾き、そのまま湯船の中へ。もちろんそのうえにあった本も湯につかる。
あっと思うと同時に、本を救出した。が、時すでに遅し。表紙も中身も波打っている。
 実はこのような経験は初めてではない。
 ここでやってはいけないことは、くっついてしまったページを開くことだ。薄い紙の分校本では破れてしまう恐れがある。本の状態が気になって仕方がないが、濡れた本の前で人間ができることは少ない。じっと自然乾燥するのを待つだけだ。
 
 が、それがなかなか難しい。

 せっかくの本を落としてしまった、濡らしてしまったショック。あーあ、何やってんだろう自分、最近集中力が足りてないんじゃないか、という自己嫌悪。すがりたくなりますよね、活字に。
 とりあえず髪と体を洗い、そして再び湯に入ってから濡れた本を開いた。慎重に、慎重に。
『ボロ宿考』という4ページの短いエッセイを読んだ。その中に、ボロ宿に惹かれる著者と自己否定についての文章があった。

 私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱れるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには“自己否定”しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に凝そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。

 自己否定=自由。思いもかけず、今までに持ったことのなかった視点に出会えた。そのタイムリーさにも驚いた。ちょっと元気が出た。湯船のなかで、体は十分に温まっていた。長湯もそろそろ潮時か。
 今度は、本をしっかりと手に持ったまま湯から出た。
 
 そして一晩たった今日。一度湯につかった文庫本はいまだに濡れており、ページが開きにくい。とっくに湯冷めしてしまっているだろうが、この文章を書き終わったら、こたつにでも入れてあげようかと思う。

過去の風呂読書記事を掘り出してきた。

dokusyotyu.hatenablog.com

dokusyotyu.hatenablog.com



読書録
『新版 貧困旅行記
著者:つげ義春
出版社:新潮社
出版年:1995年初版

新版 貧困旅行記 (新潮文庫)

「世界は僕を特別扱いしない」から始まる自由。『不自由な男たち――その生きづらさは、どこから来るのか』小島慶子・田中俊之

 まったく。年齢性別、所得の多寡や家族の有無にかかわらず、生きづらい世の中ですね。

 一若者としては、この先幸せになれる気がまったくしない。今日という日をだましだまし生きて、歳をとり、そして死んでいくのだろうなと思う。
 


『不自由な男たち――その生きづらさはどこから来るのか』という新書を読んだ。自らの生い立ちを、主に(毒)母との関係から赤裸々に描きだしたエッセイ『解縄』の著書である小島慶子と、「男性学」の第一人者である田中俊之との、対談集である。
 テーマは男の生きづらさ。
 対談集という形態とそのテーマから感情論に傾きそうなものだが、この本は「生きづらさ」が生み出されるこの社会のシステムをあぶりだそうという試みであるようだった。面白く読んだ。

はじめに(小島慶子)
第1章 その呪縛は、どこから来ているのか
第2章 男に乗せられた母からの呪い
第3章 男と女、恋愛とモテ
第4章 育児をするということ
第5章 新しい働き方
第6章 不自由から解放されるために
おわりに(田中俊之)

 特に問題提起をしている第1章と、生きづらさの根本的な原因としての母の期待について書かれた第2章が面白かった。少し抜き出してみよう。

 まずは第1章。田中氏は幼いころから、サラリーマンとして働く自分について意識できなかったという。その思いは、次のような疑問につながった。

田中 僕は結果的に研究者になったわけですが、社会学の観点から、どうして多くの男性は、フルタイムで四十年間働き続けるのが当たり前という常識を、自然に受け入れられるのかを明らかにしたいと考えています。大学を卒業してフリーターをしていると、「あいつはブラブラしている」と後ろ指をさされるでしょう。そんな酷いことを言われてしまって当然という社会の仕組みって、いったいなんだろうと思ったわけです。

 確かに。言われてみれば、フルタイムで四十年間働くのは、誰からも強制されているわけではない。しかし私もこの本を読むまで、働き続けることに、なんの疑問も抱かなかった。
大学、就活、四十年間の労働、とそれは一直線の道のように思っていた。

田中 僕がどうしてこの研究をしているかという話に戻るのですが、そもそも四十年にもわたって縛られることをなぜ男性側が問題にしなかったかと思うわけです。これはすごい仕組みですよ。

小島 すごい仕組みですよね。おかしいと思う人がいてもよさそうじゃないですか。

田中 いてもいいし、体を壊す人がいても当たり前です。実際に、心を病む人や自殺する男性はたくさんいるわけですが、そういった犠牲を社会は直視していない。男性として生きる身としては、単純に恐ろしいと思います。

 そしてその仕組みの維持装置として働いているものは、家のローン、結婚、会社であるという。一度ローンを組んでしまえばもちろん返すまで働き続けなければいけないし、結婚したら家族を養わなければいけないし、会社で働けばなかなか辞められない……これらは男が男にかける呪いであるという。

(小島)誰でも辞めたいと思うことは一度くらいありますよね。でもだいたいは、いろんなことを考えて踏みとどまる。つまり辞めようと決心した人の気持ちは、辞めない人には一生わからないわけです。そしてこの「辞めない人たち」は、「辞めようとする人」に、「お前なんか絶対不幸になる」と言い続けるんです。それは自分が踏み出せない一歩を踏み出す人に対する嫉妬かもしれないし、その人が捨てていく会社員という立場のままでいる自分を否定されたと思うからかもしれません。

 既婚者は独身者に結婚を勧め、一軒家を建てた人はマイホームの良さを語り、転職を迷う人には「転職なんてしたところで、今より待遇が悪くなるだけだ」と言ったりする。結婚なんて個人としたらしてもしなくともよいし、家だって買っても借りてもよい。職業選択の自由憲法第22条で保障されている。私たちには選択の自由があるはず、なのだ。


第2章では、このような苦しく不自由な状況にいるのに、なぜそのことに無自覚なのか、ということを考えていく。ここで出てくるのが「母」、それも「全能の母」である。日本の一時期、夫は会社出稼ぎ、家のことは妻に丸投げ、というのが普通であったころがあった。子育てをすべて任された妻は大変だ。子どもにとっても身近な大人が母親一人だけであると、その母親を相対化できず絶対視してしまう。その結果として、子供の価値判断の基準が「母」になってしまう。

小島 ママが息子にシールドを張ってるんです。ママが神様であり続けるために、息子にかけた呪いでもある。子どもが最初に出会う世界は、ママですよね。「いつでもママが守ってくれる」。それはきれいに言えば、世界に対する信頼感のようなものです。けれど成長とともに、「母親は世界の一部に過ぎないし、母親の言っていた原則など世界の原則でも何でもない。自分は特別に守られているわけでもないのだから、しっかりしなきゃな」というふうに理解していかなければならない。
 そうやって、どんどん母を「殺して」いかなければいけないのに、ママが殺されたくないばっかりに、息子にいろんな呪いをかけて君臨したままだと、息子は大人になっても無意識のうちに、「ママがそうであるように、世界は僕に悪いことをしない、僕を守ってくれる」と考え続ける。これがママシールドです。

(小島)大人になるというのはつまり、「俺がどれだけ世界を勝手に信頼しようと、世界の側から見たら俺なんて物の数でもない」と気がつくということです。

(小島)もちろん「世界は僕を特別扱いしない」と気づくのは、殺伐とした砂漠に投げ出されることでしょうけど、ママのヒーローをやめるっていうのは、自由になることでもあるんですよ。

 「母親殺し」をして大人になることで、自由を手に入れる。すなわち、自分の思考のもとにあるものを客観視して、その中にある親や社会の影響を冷静に判断する。そしてそんな自分を踏まえたうえで、自らの頭で考えて、自らの人生を切り開く。
 この後の章では、自由の形について、恋愛や子育てを通して語られていく。

 この本は読みながら、自分の母親にぜひとも読んでもらいたいと思った。
 私と弟はすでに成人しているが、両親の期待したような大人にはなれなかった。しかしそれは私たち自らが選択して、自らの人生を歩んだ結果である。「期待通りの大人にならなかった」=「子育ての失敗」ではないということを改めて知ってもらいたい……というのは、子どもの傲慢だろうか?


 本の題名には「男」とあるが、この「不自由」の問題は女も無関係ではいられない。男の生きづらさと女の生きづらさは表裏一体だ。本書の冒頭で小島氏はこう言う。

 男が不自由でいる限り、いくら「女性の活躍を」なんて言っても絵に描いた餅です。「女性も男性並みの不自由を」って言っているのと一緒ですから。

 誰もが生きやすい世の中、自由な世の中を目指す。男だ女だ、ということは置いておいて、個体としての幸せを目指す。個体としての幸せが確立できる社会を目指す。そのためには、まず、自らのうちにある「呪い」を自覚する。自覚したのち、それを克服する。克服できなくとも、自らがその「呪い」を、他者へ強要しないようにする。まずは、そこから始めようと思う。

不自由な男たち その生きづらさは、どこから来るのか(祥伝社新書)