風呂読書と自己否定 つげ義春『新版 貧困旅行記』
11月。十分すぎるほど寒くなってきた。寒さに耐えられない夜は、ガス代を気にしつつ湯船にお湯を張る。
せっかく湯船に湯を張るという贅沢をするのだから、風呂の時間をめいっぱい有効に使いたい。となると風呂に文庫本を持ち込むに限る。風呂読書についてはこのブログに何度か書いた気もするが、社会人になってからその頻度が、がくんと落ちた。この夏場はシャワーのみで済ませることが多く、月に一度くらいまで湯船の出番は減ってしまった。さすがにシャワーを浴びながら本は読めない。
昨夜もガス代と湯船につかり体をじっくり温める幸せを天秤にかけつつも、給湯器のスイッチを入れた。
相棒はつげ義春の『新版 貧困旅行記』。そのタイトルと、多数収録されているいかにも「昭和」な田舎の写真に惹かれて買ったものだ。
わたしは、湯船の三分の一を覆うように湯船の蓋を置き、そこを読書台替わりにしている。
湯につかり十分にあったまり、旅行記も区切りの良いところまで読んだので(『猫町紀行』『猫町紀行あとがき』という荻原朔太郎にインスパイアされ、道に迷うためにドライブするエッセイを読んでいた)、体を洗おうとしたときのこと。いつものように湯船の上の蓋に本を置いた。そして湯から出るために態勢をかえた。そのとき。
目の前が崩壊した。
目前の湯船の蓋が傾き、そのまま湯船の中へ。もちろんそのうえにあった本も湯につかる。
あっと思うと同時に、本を救出した。が、時すでに遅し。表紙も中身も波打っている。
実はこのような経験は初めてではない。
ここでやってはいけないことは、くっついてしまったページを開くことだ。薄い紙の分校本では破れてしまう恐れがある。本の状態が気になって仕方がないが、濡れた本の前で人間ができることは少ない。じっと自然乾燥するのを待つだけだ。
が、それがなかなか難しい。
せっかくの本を落としてしまった、濡らしてしまったショック。あーあ、何やってんだろう自分、最近集中力が足りてないんじゃないか、という自己嫌悪。すがりたくなりますよね、活字に。
とりあえず髪と体を洗い、そして再び湯に入ってから濡れた本を開いた。慎重に、慎重に。
『ボロ宿考』という4ページの短いエッセイを読んだ。その中に、ボロ宿に惹かれる著者と自己否定についての文章があった。
私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱れるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには“自己否定”しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に凝そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。
自己否定=自由。思いもかけず、今までに持ったことのなかった視点に出会えた。そのタイムリーさにも驚いた。ちょっと元気が出た。湯船のなかで、体は十分に温まっていた。長湯もそろそろ潮時か。
今度は、本をしっかりと手に持ったまま湯から出た。
そして一晩たった今日。一度湯につかった文庫本はいまだに濡れており、ページが開きにくい。とっくに湯冷めしてしまっているだろうが、この文章を書き終わったら、こたつにでも入れてあげようかと思う。