読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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週末読んだ本【読書日記】

 土曜日。久しぶりに一日中本を読んでいた。
 このごろでは滅多になくなってしまったことだ。
 記念に、というわけでもないが、今週末に読んだ本を記録しておこうと思う。

『ずっとお城で暮らしてる』シャーリー・ジャクスン

 桜庭一樹のエッセイで紹介されているのを読んでから、ずっと気になっていた本。
 先週偶々寄った本屋で、偶々見つけて購入。
 読むとめちゃくちゃ面白かった。ジャンルとしてはホラーになるのだろうか。だからと言って、別に幽霊やら怪物やらが出てくるわけではないし、暴力描写があるわけではない。
 タイトル通り、金持ちの旧家に生まれた主人公が、姉と叔父の3人で、先祖代々続く「お城」に「ずっと暮らしている」だけの物語である。
 ただしこの3人が曲者である。姉は一家毒殺の元容疑者で引きこもり。叔父は体が悪く、6年前のある日の記録を書き続けている。そしてこの物語の語り手でもある主人公は、なんだかとても想像力が豊かなようで。しかし三人だけの生活はとても幸せであるようだ。二人姉妹はお互いに「大好きよ」と声を掛け合い、古い物たちに囲まれながら、静かに暮らしている。他の家族は、6年前のある日、何者かによって食卓の砂糖壺に混入された砒素によって、死んでしまった。
 ホラー小説にテーマを求めるのも野暮だが、あえて本書のテーマを言えば「人間の悪意」だろうか。私は読み終わってから、「いつになったら、この3人だけの生活が破綻するのだろう」と主人公たちの不幸を望みながら読んでいたことに気がついた。登場人物たちの悪意だけではなく、自分自身の悪意にも気づけるかもしれない素晴らしい一冊。主人公たちが不幸になったのか否かは、ここには書かないでおく。さくっと読める文庫本なので、ぜひ読んでみてほしい。
 ちなみに文庫の解説は、この本を手に取るきっかけとなった桜庭一樹だった。ちょっとうれしかった。

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)


夜に生きるデニス・ルヘイン

 早川のポケミス。480ページほどの長編。読み終わってからシリーズものの2冊目であることを知ったが、1冊目を読んでいなくても十分に楽しめた。
 時代は20世紀初頭。禁酒法時代のアメリカ。19歳の青年が「夜の世界」で成長していくビルディング・ストーリー。主人公ジョーの19歳からの10年ほどの人生が480ページにギュッと詰まっている。3部作になっており、1部はボストン、2部はイーボーシティ、3部はイーボーシティとキューバが舞台となっている。1部ではジョーはまだ若く、「父と子」の葛藤がテーマとして意識されているように思った。2部は「無法者」としての職業小説を読んでいるかのようで、裏稼業もまた「稼業」であるのだな、と妙なことを思ったりした。3部ではよりその思いは強くなった。どんな仕事でも「仕事」であり、どんな人間もまた「人間」である。そんなことを思ったりもした。例えば、彼は密造酒で稼いだ金で図書館を建てたり、貧しいキューバの農民の子供らのために野球場を整備したりする。

 ジョーがこのビジネスを魅力的であると同時に馬鹿らしいと感じるのは、こういうときだった。五人の男がエレベーターに向かっている。全員拳銃を持ち、四人はマシンガンまで抱えているのに、ふたりは互いに妻や子供のことを尋ねている。  (p402)

 この小説が魅力的であるのは、登場人物たち一人ひとりが「人間」として描かれているからだろう。普段は冷静な男が一人の女のために身を滅ぼしそうになったり、一代で組織を築いた冷徹な男がその地位を馬鹿な息子に継がせようとしたり。絶対に賄賂を受け取らない男もいれば、賄賂によって財を成した男もいる。有能な警官が宗教に溺れ、カリスマ伝道者がある日信仰に冷めてしまう。

 物語は長いが展開は早く、一気に読めた。作者は『ミスティック・リバー』や『シャッター・アイランド』等を書いているデニス・ルヘイン。今気づいたが、文庫でも出ているようだ。映画化されたからかな?

夜に生きる 〔ハヤカワ・ミステリ1869〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)


『殺人犯はそこにいる』清水潔

『殺人犯はそこにいる』という題名より、『文庫X』と書いた方が、本好きには通るかもしれない。社会派ノンフィクション。
 文庫Xバージョンのカバーがかかった文庫本が売っており、思わず購入。書店員さんの熱い思いを受け取り、一気読みした。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」をテーマにしたノンフィクション。数年前に、5件のうちの1件である「足利事件」が、新聞紙面を賑わせていたことはぼんやりと覚えているが、その背景にこれほどの裏事情があったとは。
 世の中はすっかりとメディア不信の時代である。というか私自身がメディアというものをほとんど信じなくなった。が、私が生きるこの時代には、著者のような記者がいる。この本を読んで感じたことは、こんな時代だが、確かにメディアには世の中を変える力があるということだった。
 そして結論ありきの情報を消化することに慣れ切っている私に驚きだったことは、この事件の真犯人が結局いまだに捕まっていないということ。だから本書の題名は『殺人犯はそこにいる』なのだ。

殺人犯はそこにいる (新潮文庫)


 以上、三冊がこの週末に読んだ主な本だ。
 他にも『殺人犯はそこにいる』と同じ時に買った新書を読もうとしたが、内容の酷さに2章の途中で投げ出したり、自己啓発『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(ジュリア・キャメロン)をつまみ読みしたりした。あとこれから憂鬱な月曜日に向けて『「やりがいのある仕事」という幻想』(森博嗣)を読もうと思う。

「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書)

暇で退屈で面倒くさい【読書日記】

図書館へ行った。貸出冊数の上限が10冊から20冊に変更になっていた。
5年前の自分ならとても喜んだと思う。
しかし今の私は、別にうれしいとも便利になったとも思わなかった。
2週間で20冊本を読めるほどの集中力が、今の私にはもはやもうない。

集中力がなくなった。
本を読んでも、途中で投げ出してしまうことが多くなった。
積読本ばかりが増えていく。
何を読んでも、イマイチ、面白くない。
いや、読んでいる最中は面白いのだけれども、ちょっとしたきっかけで集中力が切れてしまい、読みかけの本はそのまま、そのままで、本の代わりにスマホを見てしまっていたりする。

そして時間を無駄にし、本も読み切ることもなく、なんとなく一日が過ぎてしまう。
趣味の読書をしないのなら、仕事でも家事でもやればいいのに、それもできずに、だらだらしている。

ああ、ホルモンK療法を受けたい(byテッド・チャン『理解』)

あの悪夢が消えさって、心やすらかにすごせるようになると、わたしはまず、読書の速度と理解力が向上していることに気がついた。前からいつも、そのうち機会があればと本棚において、ついぞその時間がなくてそのままになっていた本を実際に読むことができ、のみならず、もっとむずかしい技術関係のものまで読んだのだ。(p69)

平凡な頭脳しか持たない私は、なんというか、時間をただただ消費している。
ひたすらに歳をとるのを待っているような。
老いて死んでしまうのを待っているかのような。

人生の目的の消失?
いや、私の人生には、はじめから目的なんてなかった。

フィクションの世界の主人公たちは、人生の目標を持っていて、それに向かって一生懸命努力する。
そこでは目標を持つのは当たり前で、ただただ努力できる幸福が語られることはほとんどない。

目標もなく、だからといって、生きがいと言えるような趣味などもなく、受動的に時の流れに身を任せる現状。

小さな雪の粒も積み重なれば 景色を変えるのは不思議ですね
どうしようもない日も積み重なれば 年月となるのは残酷ですね 
                  (by amazarashi『クリスマス』)

暇で退屈で死にそう。
でも、何かをするには死ぬほどめんどくさい。

ああ、昔のように時間を忘れて長編小説を読み耽りたい。

いやその前に國分功一郎『暇と退屈の倫理学を読み返そうかな。増補新版を読みたい。

以上、ただの愚痴、日曜の夕方を持て余した末の日記でした。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

↓四年前に読んだときの読書録。
dokusyotyu.hatenablog.com

自分に足りていない能力について。【読書日記】

 森博嗣さんの新書を立て続けに読んだ。
 2003年初版ながら最近も新聞広告に載っていた『「やりがいのある仕事」という幻想』と2017年1月初版の『夢の叶え方知っていますか』という朝日新書である。
 自分には「やりがい」も「夢」もないんだけど、と軽く絶望しながら読んだのだけれども、読み終わって少し考えこんでしまった。
 何を考えたのか。
 もしかすると私には「自分を楽しませる」という能力が圧倒的に欠如しているのではないか、という仮説についてだ。

 著者の趣味は庭園鉄道である。中学生の時から『浮遊研究室』を読み込んでいる私には、著者がその趣味にかなりの時間を費やしていること知っていた。だが、その規模はどうやら想像以上のものだった。
 鉄道庭園のために副業(作家業)で稼ぎ、引っ越しをし、土木工事に励む。
 私は鉄道趣味がないので、その良さはなかなかピンとこないのだが、それだけ熱中できるものがあるということを、素直にうらやましいと思う。

 そう、私には熱中できるものも、目標とするものもない。

 人生の目標=人生の意義については、飽きるほど考えてきた。
 人生の意義を問うのではない、私たちは「人生から問われてる」(byフランクル)って言われても、言われたその場は納得できた気がしても、やっぱり心の底で納得できない。

 私は人生を失敗した、と毎日のように思っていた日々を克服できてはいないし、何といっても毎日はつまらない。
 積極的に死にたいとは思わないけれど、取り立てて生きたいとも思わない。
 特に何をするでもないけれど、ただただ遠くに行きたいなあと思う。現実逃避。逃避するほどの現実はあるのか。

 客観的に見れば幸せな状況にあると思う。住む場所も食べるものも、働く場所もある。離れて暮らしてこそいるが家族も元気だし、友人もいる。これ以上何を望めばよいのだろう。
 でも、主観的には、まったくもって、毎日が楽しくないのだ。

 これは何が悪いのか。
 どうすれば私は「辛い」と感じずに生きられるのか。

 と、考えたところで、私には「自分を楽しませる」能力が圧倒的に不足しているのではにか、という仮説に至った。
 何をやっても楽しくないのは、自らを楽しませようとする積極性が足りないからではないか。

 『夢の叶え方を知っていますか?』の中に「楽しさは買うものだろうか?」という段落がある。

現代人の多くは、「楽しさ」というものは、人からもらうものだと考えている。否、考えているのではなく、ぼんやりとそんなふうに感じているのだ。

 楽しさは、誰かが作ってくれるものであり、自分は商品を探せば良い、と考えている。

 毎日が楽しくない、と思うのは、「楽しさ」というものは誰かから与えられるものだと思い込んでいるからではないか。
 私の人生を楽しくするのは、「楽しい環境」ではなくて、私自身がどのように人生を過ごすか、ということにかかっているのだ。

 自由とは、自分が思った通りに行動することだ。これは僕の自由の定義である。まず思うこと。つぎにそのとおりに行動すること。すなわち、夢を実現させることは、自由を獲得する行為なのである。

 私は、もっともっと自由に生きることができるはずだ。