読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

暇と退屈の大学生活? 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

 一応学生なので、一週間ほど調査に出かけていた。

 想像以上に忙しい日程であり旅先の古本屋にも寄れなかったが、調査にご協力いただいた方々から貴重な助言やお話を伺う機会に恵まれ、調査自体も無事終えることができ、大変有意義な一週間であった。自らの専攻と専攻に関わる産業(何かは秘密)を改めて「好きだ」と思え、なんだか嬉しかった。

 

 さて、忙しい調査の合間にも、移動時間やら寝る前の一時のふと空いた時間やらに本を開くことは可能である。私はどんな旅行にも(友人との旅行でも、一人旅でも)本を持参する。今回は國分功一郎『暇と退屈の倫理学』にお供願った。

 

 実はこの本再読である。たぶん、昨年あたりに読んでいる。

 しかし悲しき記憶力により、本自体は読みやすいうえ、ものすごくおもしろかった印象は残っていたが、覚えていた内容は「定住革命」の話と「結論=浪費をしろ」ということしかなかった。今回読みなおしてみると、二つ目の「結論=浪費しろ」というのは読みが浅すぎ、著者の主張とずれていることに気づき、むしろかつての自分の読解力に驚いた。今回は、以前読まなかったはずの「注」までしっかり読んだ。

 

 「定住革命」の話は、この本の中ではトピックの一つにすぎないが、本当に面白いと思う。

 私たちは定住している。よって定住生活を中心に人類史を眺めてしまいがちである。しかし人類が定住し始めたのはほんの一万年前にすぎない。人類は何百万年も遊動生活を行っていたのだ。人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は遊動生活にこそ適している。

 しかし一万年前、人類は定住生活を「強いられた」。

 定住生活によって、人類にとって幸か不幸か、結果として食糧生産を始め様々な技術を得た。定住は人類にとってまさに革命だったのである。

 

 また同時に人類は暇と退屈を覚えるようになった、と本書では続く。このことについては置いておく。

 ともかく、遊動生活こそが人類に適していた、といったコペルニクス的転換は自分にとってものすごく衝撃的であった。何をもって幸福もしくは不幸な人生と形容すべきなのかは分からないが、自らの人生を考える際、原始的な遊動生活は不幸で苦しい生活であったとは言えない、といった見方は思考の一助となっている。

 原作というかこの考えの発案者、西田正規の論文なり本なりも一度読んでみたいと思う。

 この本には「本来的な人間」なるものを仮定することの危うさも書かれているが、つい、遊動生活をしていたころの「本来的な人間」を考えてしまう。もちろん、今の自分が遊動生活に耐えられるとは思わないし、発達した定住社会を否定するつもりもないが。

 

 暇と退屈、についての話に戻る。

 誰が言い出したのかは知らないが「人生とは死ぬまでの暇つぶしだ」という見方がある。

 私は比較的これに賛成である。

 先天性心疾患(総肺静脈環流異常)を患って生まれたが、主治医を始め多くの方の尽力により五体満足な体で今生きているので、自らの人生を「広大なる余生」と思っている。

 「どうせ死んでしまう」、「死ぬことに比べたらこんなこと大したことない」といった思いが頭をよぎることが多い。

 何故、このようなことを書くかといえば『暇と退屈の倫理学』というこの本は、人間らしい生の在り方を問う本だからである。どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合うか。

「人生とは死ぬまでの暇つぶしだ」という見方は正しいのだろうか。

しかしこの本を読むと、その暇つぶし、気晴らしの中にこそ人間らしい生き方があると気付される。

 そして「人生とは死ぬまでの暇つぶし」なぞと嘯ける世界に生きている私はとても幸せだと。

 また「結論=浪費をしろ」と短絡的に覚えていた箇所の、著者の主張は「記号の消費ではなく、物自体を受け取る(=浪費)ようにしろ」とのことだった。

 記号としてではなく、物を物自体として受け取り、楽しむことは難しい。自分の行為を振り返り、その行為はただの消費ではないか、と問いかけることのできる余裕を持ちたい。

 

 うまく考えがまとめられない。本書に書かれている退屈でありそれなりに楽しい生活と、今までの大学生活と、これからの社会人としての生活をもう少しゆっくり考えてみたい。本書には「奴隷」やら「環世界」やら「〈動物になること〉」やら「疎外」やら面白そうなキーワードに溢れている。