読書録 地方生活の日々と読書

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#挫折本を読み通した!『族長の秋』ガルシア=マルケス【読書感想】

ゴールデンウィーク頃だろうか。ツイッター上に「#挫折本」なるハッシュタグのついたツイートを見かけた。読むことを挫折してきた本を告白し合おう、という趣旨のハッシュタグであり、世紀の名作に挫折した人間は私だけではないことがよくわかるタグである。見ていくと、挫折に共感できるタイトルが挙がっていたりして、なかなか楽しい。
挫折本…もちろん私にもいっぱいある。いずれかは続きを読むつもりの「読んでる途中、ちょっと長め(数年単位)の休憩中」な本もいっぱいある。

このタグを意識しつつ、本棚を覗いてみた。挫折本、あったはず、と。そして手にとったのがガルシア=マルケスの『族長の秋』。牛のイラストが印象的な集英社文庫版である。確か梅田の蔦屋書店で買ったはず。梅田から帰る電車の中で読んで、そして挫折した。そういえば学生時代に『百年の孤独』『コレラ時代の愛』も手にとって挫折した気がする…あまり相性の良い作家ではないのかも。

しかし、これを機にと改めて本を開いてみる。読んでみる。圧倒される空気感。牛の臭いがする大統領の執務室を感じる。南米の熱気を感じる。

物語は主人公である大統領の死から始まり、私たちは時制のはっきりとしない物語空間の中で、彼の生涯を追体験する。

次々と現れる、鮮やかなディテールを持った小話たち。それらの人称の切り替わりに振り回されながら読み進めていくと、浮かびあがる大統領の姿。強調される彼の体のパーツ、美しい手や巨大な足。彼の残忍さ。幼稚さ。狡猾さ。純真さ。繰り返される母親への呼びかけ。現実的でやけに具体的な描写と並列に記される非現実的な事象。彼の初恋の人は天体の中に消えた。
彼の地位の背後見え隠れする欧米列強たち。結局、彼はお飾りの「族長」に過ぎないのだ。
彼は人間離れした長寿を生きた。「族長」として不自由のない生活を送った。気に入らない人間を容赦なく殺し、動物のように女を抱いた。しかし母親以外の人を愛することを知らず、愛されることもなく、死んでいった。

読者である私は思う。彼をかわいそうな人間だと。きっと彼は大統領なんぞにならない方が幸せだっただろうと。
大統領である主人公には名前が与えられていない。他の登場人物たちには名前が与えられているのに。彼は大統領になった瞬間から「大統領」としてしか生きることを許されなかった。「大統領」に個人としての彼は殺されたのだ。だから、彼の本名を知る母親以外の人間からは、彼個人は愛されることはなかった。母親以外の人間にとって、彼はただの「大統領」でしかなかったのだ。

ひと月ほどかけて、読了。やはり私が本屋で手にとって購入したことだけあり、面白かった。
文体が独特で、取っ付きにくさは確かにあった。しかし読んでいくうちに、その癖がやみつきになってきた。
南米文学はほとんど読んだことがない。もっといろいろと読んでみたい。

そして挫折本や長期休憩中の本たち、改めて読んでみようかなも思った。(と書きつつ、文庫本下巻が5分の4ほど未読な『魔の山』は、最期まで読むことなく死を迎えそうな気がするな、などとも思っている)

族長の秋 ラテンアメリカの文学 (集英社文庫 カ)

森博嗣『私たちは生きているのか?』読了。【読書感想】

最近、森博嗣のWシリーズを履修している。2018年も半分が終わろうとしているが、今年の読書目標「SFを読む」が、ぜんぜん達成出来ていないので、読みやすいしいずれは読むことになると思われる森博嗣講談社タイガ文庫を、梅雨の合間の晴れた日曜日に引きこもって読んでいた。とりあえず前半5作目まで読了。

今年読んだ数少ないSFのひとつは、神林長平の『あなたの魂に安らぎあれ』で、同じようなテーマ(アンドロイド・ウォーカロンと人間の対比、人間・生命とは何か)を扱っているにも関わらず、作者によってこうも書き出し方や読みやすさが違うのか、と思った。タイガ文庫の色もあるだろうか、このWシリーズは非常に読みやすい。

Wシリーズの5作目にあたる本作は、日本語タイトルがテーマをど直球で表している。一方で英語タイトルが、『Are We Under the Biofeedback?』となっており、日本語の「生きる」という言葉が内包する曖昧さが明確にされており、なんだかとても好きだ。この問いには、ウォーカロンも人間にもYESと答えるしかないよなと思いつつ、文庫本を読み進める。すると、「人間的」であることや「知性的」であるためには、「Under the Biofeedback」である必要はないよな、ということに思い至る。デボラは知性的で人間的(であると私は思った)であるが、生物ではない。つまり、人間であるには、生物である必要はないのか。うーむ。

ところで、このWシリーズ、だんだんと「人間的」になっていく主人公のボディガードのウグイ(と、主人公ハギリとの関係)がとても好きだ。と、書いて、今、wikiを見たら、「昇進により、6作目から現場を離れる」とある。まじか。

それからこのシリーズ、読んでいくと森博嗣の過去作品、特に『有限と微小のパン』と『赤目姫の潮解』を再履修したくなる。どちらもWシリーズに比べて、読むのに骨が折れた記憶があるけど…

dokusyotyu.hatenablog.com

鍵忘れて部屋に入れないから『友罪』みたらすごかった

鍵を忘れるというベタな失敗により、自宅から閉め出されている。家人は日帰り出張で、帰りは22時を回るそうだ。どうしようもないので、仕事帰りに映画館に寄った。
とりあえず、時間を潰すことが目的なので、上演時間と終了時間をにらめっこしながら観る映画を決める。立ち寄った映画館で上映していた映画のうち、上映時間だけなら『レディプレーヤー1』が一番長かったのだが、前に鑑賞済み。めちゃくちゃ面白かったので、もう一回観るのも有りかとは思ったのだけど、せっかくの機会だしと、普段はあまり観ない邦画を観ることにした。それで『友罪』。上映開始まで15分ほどと待たなくて良かったのも決め手だ。

そして鑑賞。

すごかった。
作品世界に圧倒された。過去(過去の犯罪や罪悪感)とどう向き合うか、友人や身内の過去とどう向き合うか、というのがテーマで、大まかなストーリー自体は、割と先が読める感じでもあるのだが、それでも、気づいたら作品世界に飲み込まれていた。シリアスなシーン続きで、笑えるようなシーンは皆無。中盤あたりで、この映画、すっごいシリアス!と思ったら、そのままラストまで、シリアスで厳しいストーリーが続いていく。人間が信じられなくなる。そしてラストは多少の救いはあるものの、決してハッピーエンドではない。

さて。私がどのくらい映画世界に圧倒されたかということは、上記の何も具体性のない印象の羅列からなんとなく伝われば嬉しい。が、ここに圧倒されたエピソードを重ねようと思う。

映画を観終わっても、まだ部屋に入ることができる時間にはなっていなかった。
映画館に併設されている本屋に行った。自分を甘やかし、本でも買おうかと思ったのだ。買うなら小説かなと思い、文庫本コーナーに向かった。しかし、驚くべきことにピンとくる本がないのだ。先程観たばかりの映画の余韻が、本選びを阻害する。いつもはあんなにも輝いて見える本屋さんの棚が色あせている。
あえて読みたい本を挙げるとすれば、一昨日買って読みかけの『未必のマクベス』か、今朝キンドルでワンクリック購入してしまった『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』…どちらも私の入れない自宅の部屋の中にある。

結局、何も買わずに本屋を出た。空腹を思い出した。開いていたサイゼリアに入る。
そして、イカとエビのドリアを食べながら、この文章を書いている。瑛太の鈴木君役(中学時代に殺人歴有り)がすごくよかった。言葉の出にくそうな感じの話し方が良かった。文章がまとまらない。ああ、映画はすごいな。

家にはまだ入れない。レイトショーでもう1本映画観ようかな…