読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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平日、プール、読書。村上春樹訳『高い窓』レイモンド・チャンドラー【読書感想】

暑い。この1週間で急に湿度が上がり、一気に夏らしくなった。気がつけば6月が、2018年の半分が過ぎた。

先の金曜日、休日出勤の代休だった。ぽっかりと空いた平日に何をしようか。そうだ、プールに行こう。あまりの暑さ、蒸し暑さに、水浴びできたら気持ちいいだろうな、と思ったのだった。
都合のいいことに、アパートの近くには市営の温水プールがある。夏休みには早いから、子供もいないだろう。いそいそと、水着と水泳帽とゴーグルとタオルを取り出す。
正直、泳ぐのは得意ではない。中学校の体育のプールの時間は、仮病で休んでばかりいた気がするし、高校生のときは体育の授業が選択制だったので、水泳は選ばなかった。友達とぷーや海に遊びに行くほどリアルが充実した青春ではなかったので、泳ぎに行く機会なんてほとんどなかった。

そんな私が自らの意思でプールに行くとは。
大人になったものだ。

小銭を持っていることを確認し、市民プールへと向かう。
そして。
プールの入り口で見つけたのは「臨時休業」の文字。夏を前に1週間かけて清掃を行うらしい。まじか。
蒸し暑さが一層増したような気がした。プールの水の中で、ゆっくりと泳げたら気持ちがいいだろうなあ。プールには、大した執着はなかったはずなのに、何故だかとても残念に思った。

どうしようもなくなり、帰り道に図書館へ寄った。こんなに暑い日に、水泳以外にできることといったら、クーラーの効いた部屋で本を読むくらいしかないではないか。


ところで「平日、昼間、プール」という言葉で、私が連想するのは村上春樹である。どうしてだろう。きっと、彼が書いた物語の主人公が、平日の昼間にプールで泳いでいたか、作家自身が平日の昼間にプールで泳いでいるという随筆か何かを読んだからだろう。

そのような連想に影響され、図書館で村上春樹訳のハードボイルド小説を借りた。私立探偵フィリップ・マーロウが活躍する、レイモンド・チャンドラー作の長編3作目『高い窓』である。

『高い窓』感想。

ある夏の日。マーロウは、金持ちの未亡人であるマードック夫人(ケチでイジワルな姑)から、家出した嫁が盗みだした高価な金貨を取り戻して欲しい、との依頼を受ける。
金貨及びいなくなった嫁を探すマーロウだが、あちらこちらに聴き込みをしていくとうちに、殺人事件の第一発見者になってしまう…どうなるマーロウ?!といった物語である。

軽妙な会話のやりとり、いわくありげな人々、拳銃、酒、嘘、恐喝、そして殺人。スピーディーに進む物語。これでもかと詰め込まれた出来事。たった1日の間にマーロウは、尾行されたり、脅されたり、殺人事件の第1発見者になったり、警察官と飲んだり、クレーマーにあったバーテンダーを慰めたりする。引きこもりメンタルな私は、その行動力が羨ましいなどという、変な感想を持った。これだけ次々と事件に巻き込まれたり、初対面の人と話したりしたら、私なら次の日寝込むと思う。

そしてマーロウの優しさ、弱者への姿勢がとても印象に残った作品だった。彼は物語のなかで、共依存的なメンタルの下、DVを受けている娘を助けだす。「タフ」という言葉が何度か出てくる。この言葉を聞くと、もちろん「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては生きている資格がない」のセリフが思い浮かぶが、まったく、本当の「タフ」とはマーロウのような男のことである。

村上春樹訳のマーロウを読むのは、初めてだったが、とても自然で、このシリーズの持ち味である会話の面白さが引き立っていたように思う。シリーズの他の本も読んでみたいと思った。


と、いうことで。プールには行けなかったが、それなりに充実した平日休みの一日でした。

高い窓

#挫折本を読み通した!『族長の秋』ガルシア=マルケス【読書感想】

ゴールデンウィーク頃だろうか。ツイッター上に「#挫折本」なるハッシュタグのついたツイートを見かけた。読むことを挫折してきた本を告白し合おう、という趣旨のハッシュタグであり、世紀の名作に挫折した人間は私だけではないことがよくわかるタグである。見ていくと、挫折に共感できるタイトルが挙がっていたりして、なかなか楽しい。
挫折本…もちろん私にもいっぱいある。いずれかは続きを読むつもりの「読んでる途中、ちょっと長め(数年単位)の休憩中」な本もいっぱいある。

このタグを意識しつつ、本棚を覗いてみた。挫折本、あったはず、と。そして手にとったのがガルシア=マルケスの『族長の秋』。牛のイラストが印象的な集英社文庫版である。確か梅田の蔦屋書店で買ったはず。梅田から帰る電車の中で読んで、そして挫折した。そういえば学生時代に『百年の孤独』『コレラ時代の愛』も手にとって挫折した気がする…あまり相性の良い作家ではないのかも。

しかし、これを機にと改めて本を開いてみる。読んでみる。圧倒される空気感。牛の臭いがする大統領の執務室を感じる。南米の熱気を感じる。

物語は主人公である大統領の死から始まり、私たちは時制のはっきりとしない物語空間の中で、彼の生涯を追体験する。

次々と現れる、鮮やかなディテールを持った小話たち。それらの人称の切り替わりに振り回されながら読み進めていくと、浮かびあがる大統領の姿。強調される彼の体のパーツ、美しい手や巨大な足。彼の残忍さ。幼稚さ。狡猾さ。純真さ。繰り返される母親への呼びかけ。現実的でやけに具体的な描写と並列に記される非現実的な事象。彼の初恋の人は天体の中に消えた。
彼の地位の背後見え隠れする欧米列強たち。結局、彼はお飾りの「族長」に過ぎないのだ。
彼は人間離れした長寿を生きた。「族長」として不自由のない生活を送った。気に入らない人間を容赦なく殺し、動物のように女を抱いた。しかし母親以外の人を愛することを知らず、愛されることもなく、死んでいった。

読者である私は思う。彼をかわいそうな人間だと。きっと彼は大統領なんぞにならない方が幸せだっただろうと。
大統領である主人公には名前が与えられていない。他の登場人物たちには名前が与えられているのに。彼は大統領になった瞬間から「大統領」としてしか生きることを許されなかった。「大統領」に個人としての彼は殺されたのだ。だから、彼の本名を知る母親以外の人間からは、彼個人は愛されることはなかった。母親以外の人間にとって、彼はただの「大統領」でしかなかったのだ。

ひと月ほどかけて、読了。やはり私が本屋で手にとって購入したことだけあり、面白かった。
文体が独特で、取っ付きにくさは確かにあった。しかし読んでいくうちに、その癖がやみつきになってきた。
南米文学はほとんど読んだことがない。もっといろいろと読んでみたい。

そして挫折本や長期休憩中の本たち、改めて読んでみようかなも思った。(と書きつつ、文庫本下巻が5分の4ほど未読な『魔の山』は、最期まで読むことなく死を迎えそうな気がするな、などとも思っている)

族長の秋 ラテンアメリカの文学 (集英社文庫 カ)

森博嗣『私たちは生きているのか?』読了。【読書感想】

最近、森博嗣のWシリーズを履修している。2018年も半分が終わろうとしているが、今年の読書目標「SFを読む」が、ぜんぜん達成出来ていないので、読みやすいしいずれは読むことになると思われる森博嗣講談社タイガ文庫を、梅雨の合間の晴れた日曜日に引きこもって読んでいた。とりあえず前半5作目まで読了。

今年読んだ数少ないSFのひとつは、神林長平の『あなたの魂に安らぎあれ』で、同じようなテーマ(アンドロイド・ウォーカロンと人間の対比、人間・生命とは何か)を扱っているにも関わらず、作者によってこうも書き出し方や読みやすさが違うのか、と思った。タイガ文庫の色もあるだろうか、このWシリーズは非常に読みやすい。

Wシリーズの5作目にあたる本作は、日本語タイトルがテーマをど直球で表している。一方で英語タイトルが、『Are We Under the Biofeedback?』となっており、日本語の「生きる」という言葉が内包する曖昧さが明確にされており、なんだかとても好きだ。この問いには、ウォーカロンも人間にもYESと答えるしかないよなと思いつつ、文庫本を読み進める。すると、「人間的」であることや「知性的」であるためには、「Under the Biofeedback」である必要はないよな、ということに思い至る。デボラは知性的で人間的(であると私は思った)であるが、生物ではない。つまり、人間であるには、生物である必要はないのか。うーむ。

ところで、このWシリーズ、だんだんと「人間的」になっていく主人公のボディガードのウグイ(と、主人公ハギリとの関係)がとても好きだ。と、書いて、今、wikiを見たら、「昇進により、6作目から現場を離れる」とある。まじか。

それからこのシリーズ、読んでいくと森博嗣の過去作品、特に『有限と微小のパン』と『赤目姫の潮解』を再履修したくなる。どちらもWシリーズに比べて、読むのに骨が折れた記憶があるけど…

dokusyotyu.hatenablog.com