読書録 地方生活の日々と読書

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『アンナ・カレーニナ』(トルストイ著 望月哲男訳)【読書感想】

 アンナ・カレーニナ、読みました。私はヴロンスキーとアンナのカップルが好きで、二人を応援しながら読んでいました。だからこそ後半になるにつれ、ページを捲るのが辛くなっていきました。恋心だけでは「生活」はままならない。文豪トルストイの大長編をひとことで言えば、そんな物語です。

アンナ・カレーニナ』を読む


 『アンナ・カレーニナ』は有名な書き出しから始まる。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

 この物語には完璧に幸福な家族は出てこない。どの家庭も大なり小なり問題を抱えており、それぞれ個別の物語を内包している。現実の生活の写し絵だ。

 驚いたのは、全編を通して読みやすかったこと。読み通すのに数年かかることも覚悟していたが、2ヶ月ほどで読み終えてしまった。光文社古典新訳文庫(望月哲男訳)で読んだので訳が読み易いということもあるが、この物語自体の筋が意外と単純だったということも要因だろうと思う。
 『アンナ・カレーニナ』は、アンナとヴロンスキー、リョービンとキティ、2組のカップルを中心に展開される恋愛・結婚小説である。美しく聡明な人妻アンナと金持ちの若い伯爵ヴロンスキー。田舎を愛する純朴な男リョービンと10代の少女キティ。タイプの違う2組のカップルの馴れ初めから結末までを追う物語となっている。社会の慣習や離婚制度など、現代の日本とは異なるところも多いが、ベースは恋愛と結婚なので理解し易い。情熱的な恋心だけでは生活である結婚はままならない。そのままならなさを、2組のカップルを中心とした悲喜劇として描いたのが『アンナ・カレーニナ』なのである。
 
 「恋愛」をこの物語の縦糸とすると、物語を深め豊かにしている横糸は、彼らの「生活」である。
 物語は様々なイベントで彩られる。社交パーティー、観劇、競馬、選挙、海外旅行。そして何よりも彼らの仕事。リョービンが愛する田舎の農作業(リョービンは地主貴族であり、受け継いだ土地で農業経営を行っている)をはじめ、当時の貴族たちがどのように働き、どのように稼ぎ、どのように稼いだ金を使ったのかということが、繰り返し描写される。生活の様式や仕事の内容などは、現代日本とは色々と異なってはいるが、生活と仕事と金が切っても切れない関係であることは現代と共通している。人生とは仕事の連続であり、どのように稼ぎ、どのように金を使うのかということは、如実に人格を表す。
 金との関わり方を描いたシーンで一番好きだったのが、ヴロンスキーの「財布の洗濯」の場面である。夜に一人で自分の財政状況の見直しをする、というちょっとしたエピソードなのだが、彼の現実的な一面が垣間見ることができ、興味深かった。

 また多様な登場人物の家族のあり方も物語世界を豊かにしている。特に印象的だったのは、キティの姉ドリーが結婚生活を嘆くシーンである。夫婦ともに公爵の家出身でありながら、子沢山で家計は火の車。なのに夫のオブロンスキーは若い踊り子に入れあげている。それでも離婚をしないドリーは、ある日一人になって、15年の結婚生活を振り返る。

これはすべて何のためだろう? こんなことをしていて、いったいどうなるのだろう? 私のようにひと時も休むまもなく、妊娠して、授乳して、いつも苛々して、愚痴ばかり言って、自分を苦しめば人をも苦しめて、夫に嫌われて一生を過ごした結果として、育ってくるのは不幸な、育ちの悪い、貧しい子供たちじゃない。

一番幸せな場合を想像してみても、もう1人も子供を亡くさないで、何とかわたしが育てあげることぐらい。せいぜい子供が不良にならないくらいで上出来だわ。それくらいがわたしに望めること。たったそれだけのために、どれほどつらい苦しい目にあってきたことか……一生が台無しだわ!」

 善良な普通の人間、良い母親であるドリーの束の間の嘆きに共感を覚えた。また貴族といえども、大変だったのだなと同情した。それから少し、妊娠・出産・子育てが怖くなった(ドリー曰く、「妊娠して、つわりがきて、頭が鈍くなって、何にも興味を失って、そして何よりもあんなに器量が落ちるんだから」)。

 とはいえ、ドリーは母親としての自分を見失わないし、忙しい毎日のなかに現れる小さな幸せを大切にすることを忘れない。あくまでドリーの後悔はひと時の心の揺らぎであり、誰しもが覚えがあるものだろう。
 『アンナ・カレーニナ』の面白さはこのような人生で直面する「揺らぎ」をしっかりと書いてあるところであると思う。
 現実でいい加減なことが嫌いなヴロンスキーは人妻であるアンナと本気の恋をするし、美しく聡明なアンナは夫カレーニンとの間の子供とヴロンスキーの間にあって取り乱し愚かな判断をするし、人を愛することが出来なかった冷徹なカレーニン新興宗教に救いを求めるし、無神論者のリョービンは子供の誕生を前にただ一心に神に祈る。
 人生は思った通りにはならないし、自分の心もいつでも制御できるとは限らない。だからこそ、フィクションとしては面白い(現実では面白がってばかりもいられないのだけれど)。

 とつらつらと書いてきたが、この物語で一番面白いのはやっぱり「恋愛」のシーンだ。アンナとヴロンスキーが恋に落ち、そして雪降る鉄道駅で再会するシーンはドラマチックすぎるぐらいドラマチックだ。リョービンの兄コズヌィシェフとキティの友人ワーレニカの茸狩りのシーンの恋のはじまりの予感に満ちたシーンも好き。

 ところで。私は自分が恋愛・結婚するならヴロンスキーが良いのですが、皆さんはどうですか?
 それから、アンナとカレーニンが円満に離婚していれば、この物語はどのようになっていたかなとも思う。アンナには幸せになってほしい。
 個人的に不満な点としては、登場人物たちの年齢があいまいなところ。恋愛小説であるので、登場人物同士の年齢差が気になります。オヴロンスキー(35)とドリー(34)、リョービン(32)くらいしか明記されていなかった気がする。あとはカレーニンがアンナより20歳年上なことくらいか。結局、アンナとヴロンスキー、どちらが年上なのだろう……読み落としたかな……


至高の百合恋愛小説『キャロル』パトリシア・ハイスミス【読書感想】

 パトリシア・ハイスミス『キャロル』を読了した。これがすごかった。直球の恋愛小説だった。
 
 本書は1951年、今から70年近くも前にアメリカにて出版された女性同士の恋愛をテーマにした長編小説である。2015年にトッド・ヘインズ監督により映画化もされている。著者は太陽がいっぱい『殺意の迷宮』などのサスペンス・ミステリー小説で有名な女性作家であるパトリシア・ハイスミス。彼女がデビュー作『見知らぬ乗客』の次作として、別名義クレア・モーガンの名で世に出した物語が『キャロル』である。
 後年サスペンスを多く描くことになる著者らしく、『キャロル』は恋愛小説にも関わらず、冒頭から終幕までハラハラしっぱなしであった。

「好き」の感情に溢れた物語

 まず圧倒されたのは主人公テレーズの、一目惚れした年上の女性キャロルに対する恋心の強さである。物語は全編テレーズの視点で語られるのであるが、彼女がもう、ほんとキャロルのことが大好きなのである。
 テレーズは舞台美術家を目指す19歳。好意を寄せてくれている親友以上恋人未満の男友達リチャードがいるのだが、彼に夢中になることができないでいる。キャロルとの出会いはテレーズのアルバイト先であったデパート(「フランケンバーグ」という名前である)のおもちゃ売り場。テレーズは娘へ送るクリスマスプレゼントを買いに来たキャロルに一目惚れをする。プレゼントを発送する際にキャロルの住所を知ったテレーズは、その日のうちにカードを送る。

『フランケンバーグから感謝をこめて』署名の代わりに自分の従業員番号六四五-Aを書き添える。

 この圧倒的な行動力。テレーズの行動力は身を結び、キャロルから昼食に誘われたところから二人の関係はスタートする。しかしキャロルは10歳以上も年上であり、夫と離婚の条件で揉めている真っ最中の既婚者であった。
 それでもテレーズの恋心は萎えたりしない。キャロルから相手にされなくとも、リチャードから迫られても、キャロルの幼馴染アビーから手を引くよう暗に言われようとも、テレーズはキャロルに恋い焦がれ続ける。
 この純粋な恋心にクラクラすると同時に、悲哀の予感を感じてページを捲る手が止まらなかった。この純粋さが、世間擦れ、読書擦れした私には、不幸になる伏線にしか思えなかった。どうなっちゃうのだろう、絶対不幸になるに違いない、そんなことを思いながら読み進めていた。
 が、物語はそんなに単純ではなかった。テレーズとキャロルの関係は徐々に深化し、そして変化していく。二人対照的なところ――若く自由で何も持たないテレーズと成熟した大人で夫も子供も持っているキャロル、内向的で過去を切り捨てるように生きてきたテレーズと外交的で奔放であり自立しているキャロル――を軸に、二人の関係は色々な面を見せ始めるのだ。その過程で、テレーズはキャロルが憧れの素敵な人というだけではなく、ただの一人の女性であるということに気づいていく。
 また二人をとりまく人々――キャロルの男友達リチャードやフィルとダニーの兄弟、キャロルの夫ハージ、それにアビーといった人々が物語を彩っていく。
 特に、キャロルの幼馴染であり親友であり元カノでもあるアビーとテレーズが二人でランチをするシーンはよかった。テレーズは恋敵でもあるアビーに若さに任せて堂々と言い放つ。

「キャロルを傷つけるなんて絶対にあり得ません。わたしがそんなことをするとでも?」
 アビーはやはり注意深く、目をそらさずにテレーズを観察していた。

70年前のアメリカの雰囲気

 二人の恋の舞台になっているのは、1940年代終わりのニューヨークである。二人の恋路と共に気になったのがこの舞台についてだった。
 私にはテレーズがすごく自由に見えた。孤児院出身のテレーズは、フリーターであり将来に対して何の保証も確約も持っておらず、自らの舞台美術を仕事にするという夢もどこかふわふわとしているのだが、そこに悲壮感がない。高校を出たら大学に進学し就活をして社会人になるというレールを愚直に進み、そこから外れてしまうことを恐れていたかつての自分と比べると本当にテレーズの生活は自由に思えた。飲酒・喫煙・デート・パーティーの日々。月単位で旅行に出かけたり、その旅行先で仕事をしたりもする。しかし遊んでばかりいるのではなく、合間合間に、舞台美術の仕事を得るために、模型を作り自らを売り込み、人を紹介してもらう。
 もちろん自由の裏側には、不自由がある。物語には、一人寂しく暮らしながらデパートで売り子として働き続けざるを得ない老女の生活も生々しく描かれていたりもする。それでも自由に暮らし、夢を追いかけ、自由に人を愛するテレーズが、そんな生き方が許される時代が羨ましいなと思った。
 また当時のアメリカの同性愛に対する偏見の強さも印象的だった。それはパトリシア・ハイスミスが別名でこの小説を世に出したことからも察せられよう。物語内においては昔から女性に惹かれていたテレーズさえも、同性愛に偏見を持っていることが記されており、その葛藤も面白いなと思った。もっともその偏見が、二人の恋、そしてキャロルの人生を大きく損なってしまうのだが。

普遍的な恋の物語

 このように物語『キャロル』の舞台や背景は、現代の日本とは大きく異なっている。それでも私が夢中になったのは、「人を愛する」ということの普遍性がこの本の中心にあるからだと思う。私はこの本を読んで、純粋にキャロルを愛するテレーズを羨ましいと思った。残念ながら恋愛経験がほとんどないうえに、そのわずかな恋愛さえもテレーズのような強烈な恋心を伴わなったので、その強い感情に飲み込まれる経験さえもがとても羨ましかったのだ。青春に対する憧れのようなものもあると思う。テレーズを見ていると、なんだか人生損をしているような気までしてくるのだ。
 私は恋愛小説をあまり読んでこなかった。それでもここまでまっすぐに恋愛感情を掬い上げ、それだけを書いた作品は珍しいのではないかなと思う。そしてそのまっすぐな熱量が、70年という時間もものともせず世界中の読者を熱中させている理由なのではないかなと思う。しばらくは、誰かにおすすめの恋愛小説を聞かれたら『キャロル』と答えると思う。

 ところで『キャロル』の読後、戦前戦後くらいに書かれた女性同士の恋愛をテーマにした物語として谷崎潤一郎『卍』が思い浮かんだ。調べてみるとなんと『卍』の単行本の発売は『キャロル』より20年早い1931年という。谷崎潤一郎すごい。久しぶりに谷崎潤一郎の純愛小説(?)を読みたくなってきた。


キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)




 映画版も気になる。どうやら現在アマプラで無料らしい。観てみたい。

 

『プラハの墓地』ウンベルト・エーコ【読書感想】

 ウンベルト・エーコ著『プラハの墓地』を読みました。

 ウンベルト・エーコといえば薔薇の名前で有名なイタリア人作家。著者紹介では「記号論学者」という紹介がされることが多いが、私は彼の学術的な功績を知らない。ボローニャ大学の名誉教授であったそうだ。2016年に亡くなっている。多くの著書が日本語にも訳されているが、私が読んだことがあるのは『薔薇の名前』のみであった。それも、下巻を三分の二ほど読んだところで挫折してしまったので、何も語れない。そこまで読んだのなら、最後まで読めばよかったのにと自分でも思う。
 挫折経験のある著者の本を読むときは、少し身構えてしまう。この本もそうであった。最後までちゃんと読み通せるだろうか。しかしせっかくの長期休暇だ。苦手意識のある本、長い本を読むのにはもってこいの日和である。

 覚悟を決めて、読み始める。パリの裏町の長々とした描写にさっそく挫かれそうになる。路地を歩くように読み進めると、一件の小道具屋に行きつく。店内に入る。雑多なものが置かれている。エナメルが剥がれた振り子時計、色の褪せたクッション、割れた陶器の子天使が付いた花瓶台、などなど。さらに店内を進む。ドアを通り抜け、階段を上がる。すると広い客間に出る。窓際に置かれたテーブルに向かい、一人の老人が腰かけている。

 肩越しに覗き込んでみると、老人は何か書きだそうとしているようで、私たちはこれからそれを読んでいくことになる。〈語り手〉は〈読み手〉を退屈させないように、時にそれを要約するだろう。

 こうして物語は〈語り手〉による導きのもと始まっていく。私たち〈読み手〉は、この〈語り手〉と共に、この老人が書き出した日記を読み進めることになる。

 老人の名をシモニーニという。日記を読みだしてすぐに、この老人シモニーニの「憎悪」に圧倒される。彼はユダヤ人をはじめ、ドイツ人、フランス人、イタリア人、イエズス会士、フリーメイソン共産主義者、女たちを憎んでいる。自分以外みんなクズ、とでもいうような書きぶりに嫌悪感を覚えた。さらに読み進める。するとこの老人が混乱の真っただ中にあることを私たち〈読み手〉は知る。どうやらこの老人、記憶に混乱があるようで、一昨日の記憶が丸一日ないらしい。そして何故か部屋には彼が憎んでいる聖職者の僧服と栗色の毛のかつらがあった。シモニーニは「自分が誰だかはっきりしない感覚」に襲われていた。
 シモニーニは自分が誰かということを探る(思い出す)ために、日記を書き、それを私たち〈読み手〉と〈語り手〉が読んでいるのだ。
 私たちはシモニーニの人生を追体験し、彼が何者で、何をしてきたのかを解き明かす。
 シモニーニの記憶を探る旅は一筋縄ではいかない。もう一人、日記の書き手が現れるのだ。ダッラ・ピッコラ神父。シモニーニの記憶が不在のときに現れるダッラ・ピッコラ神父とは何者か。シモニーニの第二の人格なのか。彼は時にシモニーニの記憶を否定し、シモニーニの記憶にない事柄を日記に書き記していく。

人間社会に絶望できる娯楽小説

 読み進めてすぐに、主人公シモニーニがどうしようもない悪党であることがわかる。ではこの本はピカレスク・ロマンなのかといえば、そんな読後感ではない。ピカレスクロマンの主人公に備わっているべき漢気や責任感、仲間意識というものがシモニーニには徹底的に欠けている。それでもこの本は抜群に面白い。一晩で読んでしまうような娯楽性がある本ではないが、挫折しそうだったのは冒頭部のみで、その後は毎日少しずつ飽きずに読むことができた。
 シモニーニには天賦の才があった。他人の書体を真似、偽書をつくる才である。彼は偽の契約書や証明書をつくることを商売としていたが、やがて政治的な陰謀に巻き込まれていくことになる。時は19世紀。彼の生まれたイタリアや後に過ごすこととなるフランスでは、革命の嵐が吹き荒れ、陰謀やら政治工作やらが水面化で繰り広げられていた。シモニーニはそんな魑魅魍魎が跋扈する世界を、偽書づくりの才能と倫理観の欠如という武器を持って、生き抜いていく。

 そしてシモニーニの人生は、「シオン賢者の議定書」と呼ばれる史上最悪の偽書(捏造と判明後もナチのホロコーストの根拠とされ、一部ではいまだに読み継がれているという反ユダヤ主義の書)の創作につながっていく。 

 この本は歴史小説である。主人公シモニーニ以外の人物のほとんどが実在の人物で、その言動も歴史資料に即したものであるらしい。背景知識がなさ過ぎて読みづらいところもあったので、読後、世界史の本(『もういちど読む山川世界史』)を読んだのだが、その中に『プラハの墓地』に出てきた登場人物たちの名前がしっかりと書かれていて、少し感動した。
 著者は歴史小説であることを存分に意識し、細心の注意力を持ってこの小説を構成したという。しかし私は一種のミステリーや、スパイ小説としてこの本を読んだ。娯楽小説として読んだ。それでも十分に面白い。人間社会に対するアイロニーにあふれている。陰謀というものがどのようなものか、暴動というものがどのように引き起こされるのか、そんな現代の社会を見るために有用な視点も盛り込まれている。シモニーニに偽書づくりを依頼したロシア人の顧客は言った。

民衆に希望を与えるために敵が必要なのです。愛国主義は卑怯者の最後の隠れ家だと誰かが言いました。道義心のない人ほどたいてい旗印をまとい、混血児はきまって自分の血統は純粋だと主張します。貧しい人々に残された最後のよりどころが国民意識なのです。そして国民のひとりであるという意識は、憎しみの上に、つまり自分と同じでない人間に対する憎しみの上に成り立ちます。市民の情熱として憎しみを育てる必要があります。敵は民衆の友人です。自分が貧しい理由を説明するために、いつも憎む相手がいなければなりません。

 為政者たちは、人々の弱さや愚かさに付け込んで民衆をコントロールしていたのだ、ということが印象的な一文だ。このような皮肉がこの小説には随所に埋まっている。そして「史上最悪の偽書」がイデオロギーや理想のためではなく、単なる金儲けと保身のために書かれたという「フィクション」はいかにもありそうで、そしてそんな小悪党の小遣い稼ぎによって、多くの人が扇動されて、人々が憎みあっているのだとしたら、ほんと人間社会ってなんなんだろうなという気持ちになった。
 面白い小説だけれども、『プラハの墓地』を読むと、人間や人間社会に対して、軽く絶望できます。おすすめ。