読書録 地方生活の日々と読書

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『2001年宇宙の旅(決定版)』アーサー・C・クラーク著 伊藤典夫訳

 有名SFを読んでおこう、と昨年末に早川書房電子書籍セールで買ったアーサー・C・クラーク著『2001年宇宙の旅』を読了した。世間的には同題名のキューブリック監督による映画の方が有名なのだろう。「2001年宇宙の旅」で検索すると、映画のことばかりが出てくる。2018年には、制作50周年(!)を記念したミリフィルムバージョンやIMAX版などで再上映されていたことは記憶に新しい。近所の映画館でも上映されていたので、その際見に行こうと思ったのだが、機会を逃してしまったため映画は未見である。
 この本を読むまで、アーサー・C・クラーク著による小説を、映画の原作だと思っていたが、どうやらこの小説は映画と共に生まれたらしい。小説は映画の脚本や撮影と同時進行で作られ、そして映画の方が数か月ほど早く世の中に公開された。1968年のことである。アポロ11号により人類が月面に着陸した1年前。
 「決定版」である本書には、著者による、物語が映画と小説の二つの形で生まれた過程についての小文が載っており、小説の読後に読んだが興味深かった。日記を抜粋している部分があるのだが、アーサー・C・クラークスタンリー・キューブリックが二人三脚で物語を作り上げていった様子を伺えて面白かった。

九月八日。ロボットの自分が分解修理される夢を見た。猛然と力がわき、二章分を書きなおす。持っていくと、スタンリーは喜び、手ずからステーキを作ってくれる。「ジョー・レヴィーン(六〇年代に活躍した大物B級映画プロデューサー。『大いなる野望』『遠すぎた橋』など)は、自分のとこの脚本家にこんなことはしないぜ」

 これらの小文や、「映画と小説のあいだで」という副題をもつ訳者伊藤典夫さんによるあとがきを読むと、小説版を読んだばかりにも関わらず、未見の映画の方も見てみたくなった。インターネット上の映画感想をみると「難解だ」「よく分からなかった」といった声も多く、とても楽しみだ。

小説『2001年宇宙の旅

 さて。物語の舞台となっているのは題名通り2001年のことである。我々は、物語世界の「未来」をはるかに通り過ぎてしまった。しかし我々は、物語の主人公であるデイビッド・ボーマンのように、冷凍睡眠を体験したり、土星を目指して宇宙へ飛び出したりはしていない。人格を持つまでに至った超高性能な人工知能HALともまだ出会っていない。2001年という年号を気にすることさえしなければ、やはりこれは未来の物語なのだ。もちろん、50年も前に書かれた小説だ。現実が著者の想像力を超えてしまった部分もある。けれどもそのことは、この小説のSFとしての魅力を損なうことを意味しない。
 この小説は未知の知的生命体と人類とのコンタクトの物語だ。その主題は、同著者によるSF小説幼年期の終わりと重なる部分もあるともいえる。しかし『幼年期の終わり』が宇宙人であるオーバーロードによる、一方的で圧倒的な地球支配を描いているのに対し、『2001年宇宙の旅』は、人類自らが宇宙へ飛び出し「未知」へと出会うという物語なので、その読書感は大きく異なる。それは、『幼年期の終わり』が未知に晒された「人間社会」に主眼を置いているのに対し、『2001年宇宙の旅』は未知を目指す「個人」に焦点を置いていることにもよるのだろうと思う。個人的には「宇宙の中の人類」よりも「社会の中の人間」に興味があるので、『幼年期の終わり』の方が好みである。

 本物語の読みどころは、宇宙船の頭脳であるHALの反乱と、土星の惑星ヤペタスにあるスターゲートを抜けたボーマンが見た宇宙の姿であろう。ネタバレになりそうだ。とりあえず、前者については、森博嗣さんのWシリーズ人工知能たちや、『マーダーボット・ダイアリー』(マーサ・ウェルズ著)を連想したと書いておこう。後者については、映画インターステラーが読みながら頭に浮かんだきた。
 また私は、第一部の「原初の夜」を面白く読んだ。この章は進化の途上にある人類、ヒトザルの群れが謎の物体と接触する。このヒトザルの群れのリーダー『月をみるもの」の世界の認知の様子が面白かった。もちろん科学的に見れば彼の様子は否定されるのであろうが、小説の世界では何をどのように想像しても自由である。

 そういえば、先月、2020年3月のNHK「100分de名著」のテーマは本書の著者である「アーサー・C・クラーク スペシャル」であったそうだ。視聴はしていないが、少し気になる。そのうちテキストでも買ってみようかな。

『ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤』(コーマック・マッカーシー著)【読書感想】

 4月。年度が代わり、陽気は春めいてきた。しかし世界では引き続き新型コロナウイルスが猛威を奮い続けている。日本でも感染者は三桁の日が続いているが、一方で非常事態宣言はまだ出ていない。私は今のところ普段通りの生活を続けている。平日は仕事へ行き、休日は近所のスーパーで買い物をする以外は、引きこもっている。
 引きこもりに寄り添ってくれるのは、やはり本たちである。他の人はこのような状況の中、どんな本を読んでいるのだろうか。私はシオラン『生誕の災厄』、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』、そして、コーマック・マッカーシー著『ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤』を読んで、今週をやり過ごした。

『ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤』

 著者であるコーマック・マッカーシーさんの小説は、以前ザ・ロードを読んだことがある。突如荒廃してしまった世界を、生き延びてしまった父子が食料を求めて南へと向かう逃避行を描いた『ザ・ロード』。数年前に読んだものだが、その印象は未だに強い。文明崩壊後に顕われた暴力に溢れた弱肉強食の世界を著者は乾いた筆致で書き上げていた。

 本作でも著者独特の筆致ーー内面描写されない登場人物たち、カギかっこなしで書かれる会話文、読点なしの長文で描かれる風景描写ーーが、物語に独特の色を添えている。物語の舞台は19世紀半ば、米墨戦争後のアメリカ南西部からメキシコ北西部。荒野が広がり、自然は厳しい。主人公は14歳で家出した少年。彼が放浪の末、メキシコにてインディアン討伐隊に加わり、虐殺の日々、人を狩ってあるいは狩られてを繰り返す日々を送るという物語だ。物語全編において暴力が溢れており、簡単に人が死んでいく。喧嘩で、病気で、虐殺で、あるいは縛り首で。読んでいるうちに、いつまでこの暴力描写は続くのだろうか、自分はいったい何を読まされているのだろうかという気になった。が、その暴力描写は、物語終盤まで延々と続いた。
 少年が加わったグラントン大尉率いる討伐隊は、インディアンの襲撃に悩まされているメキシコの各州の知事からインディアンの頭皮1枚につき、100ドルの報償金をもらうという契約をしている。彼らは敵対的なインディアンたちの頭皮を剥ぐだけではなく、平和的に暮らしているグループや女子供も関係なく虐殺して頭皮を剥ぐ。遂には通りがかったメキシコ人の村も襲い、その住民も虐殺し皮を剥いだ。討伐から戻った彼らは英雄として迎えられるが、乱痴気騒ぎを繰り返しては、その都市には居られなくなってしまい、見送りもなく次の都市へと向かうことになる。
 この討伐隊が恐ろしいのは、その目的が暴力自体にあることだ。確かに彼らは頭皮と引き換えに金を得ているが、金稼ぎ自体を目的としているようにはみえない。彼らにはイデオロギーもなく、名誉や、ましてや住民の平和な生活を求めているようにもみえない。暴力をふるう、そのために、他者を虐殺しているようにみえる。そしてその為には、ボロボロになって何週間も荒野を彷徨い獲物となる村を探すことも辞さない。
 虐殺のために砂漠地帯を放浪するなんて辛いだろうに、平和的に街で暮らす方が絶対楽だろうに、と思いながら読んでいた。正直なところ、この暴力を希求する気持ちはよく分からない。しかし、著者がこの物語で書き出したのはまさしく、この暴力を求めてやまない人間性自体である。

 この物語にはその人間の暴力性の極北ともいえる人格を持った人物が出てくる。ホールデン判事と呼ばれるその人は、2メートルを超える巨大に、体毛が一本もないという奇妙な外観をしている。力が強く博学で、乗馬とダンスとフィドルの名手である。そして虫を殺すように人を殺す。また他人を暴力へと唆す。ブライトン隊の一員であるが、隊の中でも独特の地位を占め、ブライトンの相談役として存在感を放っている。また常に記録簿を持ち歩き、旅の途中で見つけた過去の遺物や化石をスケッチしている。そして記録した後、遺物を焼き捨てる。彼は自分の知らないものが存在しているのが許せないという。判事の振る舞いは自らが神であるかのようである。彼は何を判じるのか。
 他者を意のままに扱うこと、神として振る舞うこと、暴力的であること。それらがイコールで結ばれた悪の化身の人間であるホールデン判事であるが、その他方の極として主人公の少年は置かれている。少年は、何事も判じない。ただその目で世界を見つめる。

 その少年の在り様が端的に表れているのが物語の冒頭である。物語は、次の一文から始まる。

 この子供を見よ。

 私は『白鯨』の冒頭を思い出した。そして白鯨の冒頭部、

 わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう。

という言葉が、聖書のパロディであることを思い起こした。イシュメールは、白鯨との死闘を生き延びその物語を語ったが、この『ブラッド・メリディアン』の少年は何も語らない。ただ全てを、暴力に溢れたこの世界を見届ける。
 そしてその少年の在り様を、著者は、絶対的な暴力に対抗し得るものとして描き出した。

 私は今、その意味を考えている。


『マーダーボット・ダイアリー』(マーサ・ウェルズ著)【読書感想】

 3連休。読むのを楽しみに積んであったSF小説『マーダーボット・ダイアリー』(マーサ・ウェルズ著 中原尚哉訳)をついに読んだ。一人称が「弊機」の殺人ロボットが主人公の小説だと聞いて興味を持ち、2ヶ月ほど前に買ったものだ。いざという時に読もうと、積んであったのだが、いざという時は中々来ず、どこにも行く予定のないこの連休、ついに手に取ったのだった。創元SF文庫から上下巻で出ているが、1日1冊ペースで一気に読んだ。購入時、本屋さんで上巻だけ買うか、上下巻まとめて買うか迷ったのだが、まとめて買っておいてよかった。

 上巻を開いてすぐに物語に引き込まれた。主人公「弊機」は、人型警備ユニット。非有機部品からなるいわゆるロボットとは違い、構成機体には有機部分とクローン脳を持っている。「弊機」には自我があるのだ。その自我を持った弊機の1人語りとしてこの物語は語られるのだが、この語りが抜群に面白い。語り手の「弊機」は、人の目を見ることが苦手な対人恐怖症、構成機体にも関わらず表情を隠すのが下手で、好きなことは一人で連続ドラマを視聴すること。いわゆるSFの主人公然とはしていない。冒頭からして彼彼女(弊機は性を持たない)は言う。

 統制モジュールをハッキングしたことで、大量殺人ボットになる可能性もありました。しかし直後に、弊社の衛星から流れる娯楽チャンネルの全フィードにアクセスできることに気づきました。以来、三万五千時間あまりが経過しましたが、殺人は犯さず、かわりに映画や連続ドラマや本や演劇や音楽に、たぶん三万五千時間近く耽溺してきました。冷徹な殺人機械のはずなのに、弊機はひどい欠陥品です。

 物語の舞台はずっと先の未来で、舞台は未開発の惑星や放棄されたテラフォーム施設。登場人物は、人間や強化人間や高等な知能を持った宇宙船。SF的世界を正面から書いているにも関わらず、難解さはなく、並行して読んでいる2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク著)よりもずっと読みやすい。それはSFにつきものの技術的説明を「弊機」の一人語りという仕組みで巧妙に回避しているからであろう。弊機は警備ユニットであり、備わっている教育モジュールは貧弱なものである。だから読者に説明できない。SF内世界における技術的整合性にそこまで興味のない私のようなSF初心者には、とても易しい仕様となっている。
 その一方で、この『マーダーボット・ダイアリー』の世界観は、独特のリアリティを持って私たち読者に迫る。宇宙が身近となった世界では、国家はほとんど意味を持っていないようだ。国家の代りに惑星社会を支配しているのは、私企業である。統一された貨幣があり、ビジネスがある。保険の仕組みも社会を構成する重要要素であり、未開惑星の研究・開発を行う者はみな、保険をかけている。そもそも主人公の弊機も、保険会社の所有であり、保険加入者に貸し出し、被保険者を守ることで保険の支払いをしなくて済むようにするために存在している。このような現代の資本主義社会、グローバル社会と地続きの社会を舞台にしており、国家間競争が宇宙開発にまで影響を及ぼしている一昔前のSFより、よほどリアルに感じた(余談だが、私は先日、殿堂入りSF小説火星年代記』(レイ・ブラッドベリ著)を読み、その登場人物たちの愛国心に思わず苦笑してしまった。火星にまで来ておきながら、祖国の戦争を気にかけるとは)。

 私は長編小説と思いこの本を買ったのだが、実際は上下巻の文庫本に中編小説が4作収録されている。それぞれの物語は独立しており単体として楽しめる。が、冒頭でも書いたとおり、私は一気に読み通してしまった。
 SFを読む楽しみが詰まった小説で、各種SF賞を受賞しているというのも納得である。