読書録 地方生活の日々と読書

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確かに斬新な設定の映画でした クレイブ・ギレスピー監督『ラースとその彼女』

 ラースの彼女ビアンカはラブドール

 コメディーかと思いきや真面目なビルディング・ストーリー。

 

 もてない男が自棄でラブドールを彼女にした、という話ではない。
なにしろラースは町中の人々から愛されている。
しかし大人になりきれず、コミュニケーション不全のラースに周囲の人たちの思いは届かない。
 愛しているからこそ、人形であるビアンカを紹介された兄夫婦やラースの同僚たち、医者や近所の教会仲間は、驚き葛藤を抱えつつ、ビアンカ(すなわちラースの妄想)を受け入れる。十分すぎるほどに。ビアンカは、入浴させてもらったり、パーティーへ行ったり、教会に受け入れてもらったり、診療まで受けさせてもらう。人形である彼女はラースが嫉妬するほど、周囲の人たちに受け入れられる。

 もしも、私の兄弟あるいは友人が、人形と一緒に暮し始めたら、その時私は彼を受け入れることができるだろうか。
 ラースの兄ガスははじめ、ラースを精神病院に入院させるよう主張する。近所の目を気にしながら。
 ガスの反応は一般的なものであろう。私も同じようにする。到底、受け入れられない。ではどうして映画の彼らは妄想と生きるラースを受け入れることができたのだろう。

 

 私はキャパが狭い人間だ。
多少の認識の誤差を有する人間を受け入れるだけの余裕がない。
 人を愛する、というのは余裕がなければできないことだ。
 人と人との差異を認め、否定せず、ありのまま受け入れる、ということは言葉にすると簡単だけど、実践することはシンドイ。
 大人になる、ということは、他人を思いやり、他人を愛する余裕をもつということなのかもしれない。
 ラースは26歳で、ビアンカを通して人を愛する大人になることに気づいた。
 気づくだけで、認識するだけで、人は大人になれるのだろうか。
 私はもっと優しい人間になれるだろうか。