原作と比較。映画『そこのみにて光輝く』呉美保監督
函館には住んでいたことがある。
佐藤泰志の原作はもちろん既読。
先入観ありまくりの映画鑑賞をしてきました。
映画、原作ネタばれあり『そこのみにて光輝く』感想
原作を読んだことがある作品を、映画で観ることはあまりしない。
むしろ普段はできるだけ先入観を持たずに映画を見るようにしている。
今回のように原作を知った状態で映画を見るのは、ある意味新鮮であった。
なんといっても、映画に集中しきれない。
原作や実際の函館の町との、細かい違いが気になってしまう。
よく勝ち組負け組と言うが、その勝ち負けの土俵にも立てない人々の物語である。
ストーリーについては、原作とはだいぶ違う。
原作では一部と二部とに分かれており、その間には数年間の時が流れているのだが、映画では二部の最後を一部に織り込んだ感じになっている。時間的にも一夏で収まっている。
また時代も明言されないが80年代ではなく現代。携帯電話が出てこないのは良いと思う。
ニートな主人公・達夫が、パチンコ屋で前科持ちの青年・拓児と知り合い、拓児の姉・千夏と男女の関係になっていくという基本的な線は原作と同じであるが、拓児・千夏一家の状況の悪さが映画ではより際立っていた。
良い悪いではないが、原作に比べると分かりやすい不幸せが書かれているように思う。
それを踏まえて、映画を見ながら思ったことを箇条書きにしておく。
・拓児、千夏の家が原作読んで想像していたよりもボロい
・原作では函館市内の海岸通りの近くにあるという設定だったと思うけど、ロケ地は市外だった(どうでもよいが一番気になった)
・拓児のイメージが読んだときの私の想像と少し違った。金髪。原作の不器用な感じのほうが好き
・達夫の前髪が気になる。散髪しろと言いたくなる
・親の墓についての考えを映画で表わすのは難しいのだろう。妹の夫については全く触れず
・原作で好きなシーン(拓児を山へ行かせないよう達夫と千夏が結託するところ)がなかった
・犯罪を犯した拓児に対する達夫の対応が原作と大きく違う。逃がさず自首に付き合う。そっちにしたかー、という感想
・達夫のトラウマ設定が残念
特に最後の達夫トラウマについてだが、「原作:リストラされた無職」→「映画:同僚を事故死させてしまいトラウマで働けなくなってしまった。けれど他の同僚から職場に戻ってこいと誘われている」という設定になっており、確かに分かりやすいが、その分かりやすさが残念であった。
この変更により原作にあった達夫の「ごく普通の青年感」といったものが、映画では「訳あり感」に変わってしまっている。ごく普通の青年が、偶々貧困下にある姉弟に出会い、何故か惹かれていく、といったところが原作のひとつの肝であると思うのだが。
ただし、このトラウマ設定により、よりストーリーがドラマチックになったのも事実である。
達夫からトラウマの告白を聞いた千夏が、彼に浴びせる言葉が凄まじい。
「だから私みたいな女でいいんだ」
ちなみに千夏は、売春婦であり、弟の勤め先の社長の愛人であり、要介護の父親の性処理を母親に代わってやる女である。もう、ね。男が嫌いになりそうだ。
この千夏の状況からも分かるように、原作も映画もよくあるラブストーリーでは全然ない。
どこにも行けない愛
この映画の宣伝にもやたら「愛」という言葉が踊っている。
確かにこの映画には「愛」が書かれている。
けれどもこの「愛」は、分かりやすく善良な「愛」ではない。
「愛は地球を救う」ではなく、「愛は家族を救わない」。むしろ「愛によって救われない」。
極貧下にある千夏も拓児も、ぎりぎりのところで家族を捨てない。
家族を捨て、町を出ていれば、本作に書かれる悲劇は起こっていなかった。
家族愛によってどこにも行けなくなってしまった家族は、家の中で自滅する時を待つしかない。
達夫の「愛」だってそうだ。無口な彼の愛は随分身勝手である。
彼の愛がぎりぎりのところで均衡を保っていたバランスを崩してしまい、ストーリーは悪い方へと進んでいく。
進んだ先に、救いはなかった。
死ぬことも、殺すこともできなかった。
彼らはどん詰まりの底で、生きていくしかない。