読書録 地方生活の日々と読書

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『セロトニン』(ウエルベック著 関口涼子訳)【読書感想】

 セロトニンとは神経伝達物質であり、不足するとうつ病などを惹起させるという。幸福物質、などと呼ばれているのを耳にすることも多い。題名通り、本書セロトニン』(ウエルベック著)は幸福についての物語である。
 
 40代の白人男性である主人公は、幸福とはセックスを含んだ恋人関係であるとする。
 しかし彼は20歳ほど年下の恋人を愛しておらず、ヴァカンスでも寝室は別だ。そのうえ、PCを覗き見することで、彼女の不実も知ってしまう。さらには仕事にも意義を感じられない彼は鬱状態に陥り、抗鬱剤を服用することになる。彼の服用する抗鬱剤キャプトリクスの副作用は、性欲の喪失、そして不能だった。
 ある日、主人公はふとしたきっかけで、「蒸発」することを決意する。遺産もあり、金には困らない。仕事を辞め家を出た彼は過去の追憶に浸り、やがて過去の恋人たちや学生時代の親友を訪ねる旅に出る。
 きっと主人公は過去と未来を肯定する救いを求めていたのだろう。
 しかしそこで出会ったのは変わり果てた恋人や落ちぶれた姿の友人であり、時代の流れと生活の重圧に押しつぶされた人々の姿だった。

 私がこの物語に惹かれたのは、現代社会に生きていくことの困難をリアルに描いているからだ。この物語は救いがない。著者はまるで、現代社会では誰もが不幸だと言わんばかりである。
 『セロトニン』という題名が暗示することは、鬱状態などの感情は脳内の化学物質の作用に過ぎないという現代的な人間理解である。現代的・科学的な人間理解の下では、宗教的な救いはあり得ない。主人公はクリスマスイブにミサへ行こうとしたが、既に予約でいっぱいだった。
 ではその代わりに、現代社会で得られる幸福とは何か。男女の愛である、と主人公はいう。しかし彼はなかなか求めるものを得られない。
 
 そんな主人公に同情できたかといえば実は全く出来なかった。嫌いな言葉ではあるが、彼に対しては「自業自得だろう」と思った。彼自身も思うように、彼には幸せになる選択肢も過去にはあった。相思相愛の恋人がいて、彼女ら(彼には二度も機会があったのだ)と共に暮らすことを選ぶこともできたのだ。しかし彼は二度とも、自らの浮気により、その機会を不意にした。
 加えて、物語の後半、精神の拮抗を崩していると思われる彼(この物語は一人称で語られるが、彼は所謂「信用できない語り手」である)は、ついに犯罪的な行動にでる。彼の人間観やとった行動は擁護しにくい。
 アッパーミドル階級に生まれ、高度な教育を受け、十分な給料を得られる職を手に入れたが、抗鬱剤キャプトリクスを手放せない彼の人生を読み、私たちは現代の幸福をどのように受け止めるべきなのだろうか。

 ところで、私がこの物語を読み終わったときに思いうかべたものは太宰治の『人間失格』だった。「『セロトニン』は現代フランス版『人間失格』なんだろうな」と何故かぼんやりと思った。どうしてだろう。両者はまったく異なった物語であり、読了時の印象もまるで違う。ダメ男の一人語りで、女性との関係を軸に人生を振り返っていく、という構成に、共通点を感じたのだろうか。とりあえず、久しぶりに『人間失格』を読みたくなった。

セロトニン

セロトニン

スティーヴンスン『宝島』【読書感想】

 ミスター・トリローニは、スクーナーの出航準備を監督できるよう、波止場の旅亭に泊まっていた。そこまでは歩いたが、うれしいことに道は岸壁ぞいで、そこには大きさも艤装も国籍もとりどりの船がひしめいていた。水夫たちが、ある船では鼻歌まじりに作業をしており、ある船では、ぼくの頭上はるか、蜘蛛の糸みたいに細いロープにつかまっていた。今日までぼくはずっと浜辺で暮らしてきたのに、いまはじめて、海と間近に接した気がした。タールのにおいも、潮の香も、まるで新鮮だった。目にはいる見事なこしらえの船首像は、どれもみな遠い潮路を渡ってきたのだ。

 昔から海洋冒険小説が好きだった。特に大好きだった一冊がティーヴンスンの『宝島』。多くの人の手によって日本語訳もされており、一度は読んだことのある人も多いだろう。子どもの頃に読んだのは福音館書店版(坂井晴彦訳)だった。今も実家にはあるはずだ。現在、手元には訳者違いで2冊ある。鈴木恵訳の新潮文庫版と村上博基訳の光文社古典新訳文庫版だ。なぜ2冊持っているかといえば、本屋で見つけると懐かしくなりつい財布の紐が緩んでしまうからだ。それに2冊とも表紙のデザインが良い。手元に置いておきたくなる。
 少し前に光文社古典新訳文庫版で『宝島』を読み返したので、忘備録代わりに感想を書いておこうと思う。

 この本を手にする前までレ・ミゼラブル 』(ユゴー著)を読んでいた。『レ・ミゼラブル 』は文庫で5冊分という大長編のうえ、なかなかストーリーが進まないので読み進めるのに骨が折れた。脇目をふらず、一気に読んでしまおうと思っていたが、つい気分転換がしたくなり手に取ったのが、この『宝島』だった。
 気晴らしのつもりだったので、ぱらぱらと読みはじめる。読みはじめてすぐに物語が動き出す。ちゃんと一行目から主人公が登場する(レ・ミゼラブルは主人公が出てくるまでに100ページほど読まなければならない) 。そして一気に引き込まれる。


 主人公ジムは、海の近くの宿屋の息子。両親が営む宿屋に一人やってきた長期宿泊客は、いつも酔っては古い船乗りの歌をがなりたてている。彼が病で息を引き取ったのち、滞納していた宿泊料を徴収しようとトランクを開けると、出てきたのは異国の硬貨と「宝島」の地図。ジムは村の名士でたる医師や大地主のトリローニと共に宝島を目指すが、街で雇ったコックをはじめとする船員たちには何やら怪しい過去があった。
 
 ストーリーは単純だ。お宝を目指す主人公たち。そこに立ちはだかる様々な困難。勇気と無鉄砲さで、困難を打ち破っていく主人公。
 ストーリーの基本ともいえる構造の物語だが、大人の今読んでも十分に面白かった。
 主人公の困難への対応の仕方はなかなかに強引であり、若さゆえの無鉄砲さで、思慮深い大人たちの危機を救っていく。キャビンボーイにすぎないジムが、立派な大人である「紳士」たち相手に死闘を繰り広げる様は痛快である。最も、大人になってから読むと、自分勝手に猪突猛進するジムとは、一緒に仕事はしたくないな、などとも思う。

 読み返して気がついたのは、この物語の面白さはストーリーだけではなく、どこかダメなところのある登場人物たちの姿や、彼らの微妙な関係性の描写にもあるなということだった。
 出てくる大人は立派な人もいるが、それは少数で、多くのものは、肝心なところで怖気付いたり、おしゃべりすぎたり、二枚舌だったりする。現実と一緒だ。そして彼らは仲間同士であったとしても、決して一心同体ではない。それぞれに考えがあり、微妙な対立を孕んでいる。出船前の船長と地主の、大人同士らしい対立の様子など面白かった。仕事をしているとときおり目にする「あの」感じが、よく表されていると思う。

 人間心理の微妙な機微の書き分けはさすが、ジキル博士とハイド氏の著者だなと思う。著者の書いた大人向けの小説ももっと読んでみたくなって、『幽霊船』という小説を買ってしまった。2021年初の古本購入であった。

宝島 (光文社古典新訳文庫)

宝島 (光文社古典新訳文庫)

挫折本を読み返す。ヴィクトール・ユゴー著『レ・ミゼラブル』(西永良成訳)

 「ところが、アンジョルラスには女がいない。彼は恋をしていないのに、勇猛果敢になれる。氷みたいに冷たいのに、火みたいに壮烈になれるなんて、これこそ天下の奇観というもんだぜ」
 アンジョルラスは聴いているようには見えなかったが、もしだれかがそばにいたら、彼が小声で「祖国(パトリア)だよ」とつぶやくのが聞こえたかもしれない。


 挫折本を再び手に取り、そして挫折せずに読み通すために必要なものは、暇と勢いである。今回のレ・ミゼラブル読破への再チャレンジでつくづくそう思った。

 私は『レ・ミゼラブル』という物語をトム・フーパー監督ミュージカル映画で知った。この映画は当時の私にとっては大きな衝撃で、気がつけば映画館で3回観て、DVDを購入し、サントラを延々と聴いていた。
 原作にもすぐに興味を持った。まずはミュージカルの元になっているとされるポール・ベニシュー氏監修の短縮版(永山篤一訳)を買った。角川文庫で上下二冊。これはこれでボリュームがあるが、面白くて一気に読んでしまった。映画で省略されていた人間関係(テナルディエの子どもたち)などが描かれており、満足感を覚えた。
 それからしばらくして、やはり完訳版も読んでおくべきではと思ったのかなんなのかは忘れたが、完訳版に手を出した。古い訳のものは著作権が切れ、電子書籍で安価に読めることに気づいたこともきっかけだったと思う。
 そして挫折した。意外と途中までは順調に読み進めていた。悪名高いワーテルローの戦いのシーンも面白く読んだ。墓場のシーンなど、短縮版では飛ばされていたシーンも読めた。が、マリユスが登場しコゼットと恋に落ちた辺りで挫折してしまった。特にこれといった理由はなかったと思う。自然と本を手に取ることがなくなり、そのまま物語世界から離脱した。とにかく私は挫折したのだ。

 一昨年にモンテ・クリスト伯、昨年にアンナ・カレーニナを読了し、次に何を読もうか思案していたところ(趣味読書のなかでも楽しい時間のひとつだ)、ふと『レ・ミゼラブル』のことが思い浮かんだ。調べてみると、新しい版が出ていた。しかも訳者は西永良成さん。西永さんが訳された本(ミラン・クンデラ著『冗談』)を読んだばかりの時だった。西永さんの訳は読みやすく、これなら挫折経験のある『レ・ミゼラブル 』も読めるのではないかと思った。
 西永訳の『レ・ミゼラブル 』はまずはちくま文庫、ついで、平凡社ライブラリーから出版されている。目前に正月休みが迫っていた。私は平凡社版を手に入れた。
 

再度挫折しそうになった

 本は2020年の年末から読み始めた。そしてさっそく挫折しそうになった。読めども読めども、主人公のジャン・ヴァルジャンが出てこない。「正しい人」であるミリエル氏の話が延々と続く。主人公の登場までは結局、100ページほども読み進まなければならなかった。大いなる前日譚である。それでも読み続けなければ、再度挫折してしまう。そう思い、出来るだけ他の小説本を途中に挟まず、ひたすら『レ・ミゼラブル』の世界に浸った。
 ストーリーだけを追っていく読書に慣れきってしまっている私には、なかなかにつらい読書経験だった。読みながら、短縮版が作られるのも納得だなと思った。時々、何を読まされているのだろうか、と疑問にすら思った。ストーリーにあまり関係のない修道院の歴史やそれに対する著者の見解が長々と述べられていたりする。物語が最高に盛り上がった直後に、パリの下水道の歴史についての講釈が始まったときには、つい笑いそうになった。
 すべての伏線が著者によって丁寧に解説されるのはいいが、現在の小説ではあり得ないだろう冗長さに辟易してしまったところもある。本筋のストーリーよりも長い、町や歴史の説明や政治的見解、実際の地名や人名を挙げての著者の主張。著者はこの本で何を伝えたかったのかと考えると、とたんに分からなくなる。 
 

悲惨な人々

 少なくとも著者が描きたかったのはストーリーだけではないだろう。映画では『レ・ミゼラブル』は一人の徒刑囚でありヒーローであるジャン・バルジャンの物語だが、この小説で著者が描きたかったのは一人の男の更生と償いのストーリーではないだろうと思う。この本の題名はなんだ。『レ・ミゼラブル』である。この訳の版では「悲惨な人々」と訳されている。著者が描きだしたかったのは、この社会に存在する「悲惨な人々」であり、その「悲惨な人々」を内包する社会そのものなのだろう。

 この物語に登場する人物たちは、みなどこか独善的で、共感しきれないところがある。そしてその完璧とは言い難い部分が、一人ひとりを魅力的にしている。映画版に比べるとマリユスはだいぶ薄情な人間に思えるし、コゼットもただ純粋なだけではないところがある。
 登場人物はみな「悲惨な人々」という言葉に内包される。貴族階級の人間はほとんど登場しない。19世紀の他の有名小説、例えばフランスを舞台にした『モンテ・クリスト伯』やナポレオン戦争期を舞台にした『戦争と平和』に繰り返し描かれる上流階級の人間による晩餐会は一度も出てこない。著者の目線は、常に民衆に向けられている。民衆の姿を、過度に理想化することも、侮蔑することもなく描き出している。
「悲惨な人々」というが、しかし、彼らの人生が決して、悲惨で可哀そうなものであるだけではないことも著者は描き出す。それはもちろん貧しい農村に生まれ、パンひとつで徒刑囚とされたジャン・ヴァルジャンの数奇な人生と彼の最後を見れば明らかだが、テナルディエの子どもたちがそれぞれ辿った運命にもそのことがよく表れていると思う。エポニーヌは報われない愛の前に命を差し出し、ガヴローシュの逞しさは下の弟たちに引き継がれた。彼らの存在を通して、著者が書き出したのは人生の「悲惨さ」ではなく、人間に対する「希望」である。
 著者が描いた「希望」、19世紀のパリの民衆が手にした「希望」は確かに人々に伝わり、アンジョルラスたちの「革命」は挫折したが、彼らの希望は少しずつ社会を変え、時代を越え国を越え、私が住む社会へと連綿と繋がっている。相変わらず世界は「悲惨」だが、それでも私たちは「進歩」の途上にあるのだ。

 そしてこの『レ・ミゼラブル』、読みにくい部分は確かにあるが、一方でストーリーが進む部分はものすごく面白い。主人公ジャン・ヴァルジャンはしょっちゅう危機に陥り選択を迫られるし、彼を追い詰める悪役たちも個性豊かに物語を盛り上げる。
 読書中、私の頭の中では、映画『レ・ミゼラブル』のサントラがひたすらに流れていた。小説を読み終わった今、とりあえずもう一度、映画のDVDでも見ようかなと考えている。