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読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

『まだ、人間』 松本准平監督

気分が落ちた時、私たちには二つの選択肢が与えられている。

(1)明るいコメディー映画を見たり、エンタメ小説を読み、気分を盛り上げる
(2)シリアスな映画を見たり、暗く哲学的な純文学を読み、落ちた気分をとことん味わう

私は(2)鬱戦略を採択する。
大学生活史上最も辛かった一週間は、林芙美子『放浪記』で乗り切った。
(2)の戦略では、物語中の彼彼女らも頑張っていたのだから自分も頑張れるはず、との慰めも得られる。

特に理由もなく、気分が落ちていた。
普通と言われる生活と自死との距離を考えていた。
近年その間の距離がとても短くなっているのではないか、なんて。
そんな時、貸しビデオ屋で本作を見つけ、そのタイトルに惹かれ手にとった。
『まだ、人間』松本准平監督
タイトルから想定された通り、鬱映画だった。

どんづまり。

「いくら手を伸ばしても、心と体と頭はばらばら」

シェイクスピアのセリフの引用でこの映画は始まる。
男二人、女一人がどんづまりでもがく映画である。
映画の核心は、予告篇の一言に集約される。

「僕たちは絶望を愛しているのだろうか」

つまり何かと言われても説明は難しい。
冒頭のシェイクスピアのセリフにあるように、言葉の無力さをひしひしと感じた。
状況を言葉で表わすことは出来る。
でもその状況に置かれた人間の心情を表わすには、言葉では足りない。
一方で行為は実に雄弁である。
言葉に出来ない感情を、体温に乗せて伝えることができる。
しかしその行為が、いわゆる愛や信頼を表しているかと言われると、必ずしもそうではない。
人間、難しい。

物語は一人の人間の死によって始まる。以下、ネタばれ注意。

金に憑かれたエリートで本作の主人公タツヤはその男に、横領した金を渡していた。
バツ1で子供と離ればなれのルカは彼の婚約者だった。
そして信仰心の篤い家庭で育ったリョウも彼のことを愛していた。

恋愛でも信頼でもない三角関係が複雑に絡みつつ物語は進行する。性別を超越した関係。生殖とは別次元の行為。
抱きしめても、キスしても、心も頭もバラバラなまま。
傷つけあい、それでも相手を求めあう。
若輩者の私の頭に、いったい愛とは何なのかとの疑問が飛び交う。

映画を見て思ったこと。

深くは考察しない。考えさせられる、というよりも、心に迫る映画だった。
様々な感情や考えが飛来する。なので思ったことを羅列。

・人間が内包する理不尽さや矛盾。割り切れなさ。

・人は信じたいものを信じる。だから人は裏切られる。そして無意識のうちに人を裏切っている。

・人は裏切る。でも、自分も自分を裏切る。自分を信じられない苦しさ。自信喪失。自己嫌悪。自傷

・永遠の愛。その有無は分からない。しかし「今、この瞬間は確かにあなたを愛している」あるいは「あの瞬間は確かに私は愛されていた」という形の愛、瞬間の愛は存在するのではないか。そして一瞬性の愛に永続を求めるから、裏切られたように思うのではないか。

・人間は苦しい。でも、生きる。やり直せる、のか。

・常に理性的でありたいとは思う。しかし思考停止を笑ってはいけない。私だって、もし同性の後輩に「愛している」と抱きしめられたとき、理性で行動を支配することはできないだろう。

・映像表現とはすばらしい。たぶんこの映画を文語化しても、映画の鑑賞後ほどの感慨は得られなかっただろう。

ところで本作のタイトルは『まだ、人間』だが、登場人物たちはものすごく人間臭い。
人間であることの苦悩が滲み出ている。
それは絶望の中で、生きる意味を問い続ける戦いでもある。
彼らは人間であるからこその答えを見つける。
すなわち存在の肯定。
人間の肯定。
あなたはこの世界に必要なのだ。

私はまだ誰かを愛しても、傷つけてもいない。
私はまだ半人前。まだどん底を舐めてはいない。
世の中はきっと、もっと理不尽で、そしてそれを味わってこそ見える世界があるはず。
明日から、もう少し、頑張ってみる。

放浪記 (新潮文庫)

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