読書録 地方生活の日々と読書

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平成生まれが昭和の恋愛小説を読む 『コーヒーと恋愛』 獅子文六

シンプルな題名に惹かれた。
『コーヒーと恋愛』。コーヒーと恋愛。
それこそ、ちょっと気取ったブログのテーマになりそうな取り合わせである。
しかしこの物語、50年前新聞小説として書かれたものである。
50年前の大衆小説。
50年前の文学小説ならまだ分からぬでもない。
ミステリでも分かる。
しかし本書は、恋愛と名のつく小説だ。
どのようなものか、なかなかピンとくるものではない。
実際に読んでみる。
そこには昭和の世界が広がっていた。
その世界は平成生まれの私にとっては、古い/新しいという価値軸で測れるものではなかった。
まったく別の世界を覗きみた。

舞台は、テレビ番組が始まってまだ10年の、高度成長期。
男尊女卑、家の格式や男が外で働き女が家を守る、といった意識も色濃く残る世界である。
そんな中、庶民派中年女優であるモエ子を主人公に物語は進む。
彼女は女優として稼ぎ、売れない舞台画家である8歳年下の亭主を養っている。
もちろん当時としては、年下の夫は珍しいし、女優業として女が朝も夜もなく働くことも新しかった。
そして彼女にはすごく美味しいコーヒーを入れるという特技があった。

モエ子と夫のベンちゃんと、仕事仲間とコーヒー仲間の間で繰り広げられる恋愛劇。

恋愛劇といっても、しかし、現在の物語のような派手さはない。
なんとなく呑気であり、基本的に負の要素がない。
それは主人公のモエ子が40を越えているということもあろう。
しかし現在の40歳の女性を主人公とした小説が、どこか殺伐としているのに対し、そのような殺伐さがこの物語には全くない。
なんというか、低刺激
面白い/面白くない、ということではない。
速い/遅い、であり、振り幅の大小の問題である気がする。
現在の物語に比べ、よりゆっくりとしたスピードで、落差の少ない物語が進んでいく。
それからもうひとつ言えるのは、主人公との心理面との距離だろう。
読者である私たちと、主人公たちとの距離は遠い
もちろん、主人公たちはそれぞれに悲しみ、喜んでいる。
けれども、どこか、それこそコメディー番組を見ているように、物語は進んでいく。
読者の心の奥の嗜虐性や欲望を刺激することがない。
病んだ登場人物に自分を重ね鬱な気分に浸る、といった読書体験とは180度違う読書である。
50年前の読者が望んだものと、今の読者の望むものが違ってきているのかもしれない、とも思った。

もし同じ物語を現代の文体で、現代のスピードで、現代の欲望に合わせて書いたらどうなるだろうか。
登場人物の良い面よりも悪い面を強調し、誰だって弱い人間なんだという主張をちりばめ、因果応報のために落とすべきところはとことん落とし、個々の考えをじっとりと書き、個人主義的・効率的な行為とその割り切れなさを際立たせる。
暗く、スピード感ある展開で、人間の名誉欲と金銭欲の醜さを書く。
昭和に書かれたこの本にも、その片鱗はちりばめられているのだ。
しかしそのような面を表だって際立たせないところに、この本の昭和らしい呑気さがある。
呑気さという言葉が悪ければ、現代人が失ったゆとりとでも言おう。

陽気なコーヒー友達は、現在では、人のプライバシーに立ち入ってくるお節介だ。
虚言癖のある新人女優は、メンヘラだ。
稼ぐ気もない癖に妻を尻に敷こうとする夫は、ただのダメ人間である。

悪いところを悪いと指摘せず、人間そんなもんさと、受け入れる大らかさ。
その大らかさを、我々は、効率、個人の自由の名のもとに切り捨てた。
それが良いことなのか悪いことなのか、私には判断できない。
時代は変わった。
社会も、人の価値観も。
50年前の大衆小説は、その事実を、確かに伝える。

昭和の恋愛、平成の恋愛

そもそも、恋愛、という言葉がもつニュアンスも50年前と現在とでは違っているのかもしれない。
物語的恋愛を求めてページを開いていたが、「感動」や「切なさ」と言った言葉が似合う恋はこの物語には出てこない。
よくよく考えれば、今の世の恋愛も、実は「感動」や「切なさ」とは無縁な生活の延長にあるではないか。
もしかしたら現代人たる我々は、恋愛に多くの幻想を求めすぎなのかもしれない。
恋愛なんて、世界の中心で叫んでしまうような大げさなものではなくて、朝ごはん後にちょっと丁寧に入れたコーヒーを飲む程度の幸せで十分なのだ。

読書録

『コーヒーと恋愛』
著者:獅子文六
出版社:筑摩書房(ちくま文庫
出版年:2013年

コーヒーと恋愛 (ちくま文庫)