読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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半額惣菜と「きょうの料理」

今週のお題「最近おいしかったもの」

 今朝のこと。洗い物をしていた際、水道水に冷たいと思っている自分に気づき、ああ、秋だなと思った。日が暮れるのも早くなってきた。秋本番である。

  今週のお題「最近おいしかったもの」。
  秋には美味しいものが沢山ある。秋刀魚の塩焼きはもう3度も食べた。食後の楽しみは梨や柿といった果物たちだ。そしてお米。やっぱり新米は美味しい。
  美味しいものが溢れている秋のこの頃だが、しかし、昨晩は夫が飲み会で不在だったので、ここぞとばかりにスーパーで惣菜を買ってきた。お刺身に鶏の唐揚げに、磯辺揚げに枝豆。鶏肉もちくわも枝豆も大好物だ。結婚してから買うことが減った缶チューハイも、一緒に買った。うん、不健康。でも、この不健康そうな雰囲気も含めて、美味しい。

半額惣菜の一人暮らし


  独身の頃は、よくスーパーの惣菜を買っていた。その頃勤めていた会社は、毎日、残業だった。帰り道にスーパーに寄ると、惣菜類はだいたい半額になっていた。惣菜やカップ麺を買って帰った。
家に帰り、惣菜をつまみつつ、テレビをつけると、NHKで「きょうの料理 ビギナーズ」「きょうの料理」が放映していることが多かった。カップラーメンをすすりながら観る「きょうの料理ビギナーズ」は、体に悪いものを食べているという背徳感を一層盛り上げた。ああ、私ってなんてダメな人間なのだろう。

 もちろん毎日半額惣菜を買っていたいた訳ではない。安月給の身には半額惣菜にかかるお金も、財布には痛い。なんだかんだで三食自炊のことが多かった。職場は家から車で10分ほどだったので、昼食も家で食べることが多かった。たいていの日は、夕食の残り物を食べていた。
 夕食は冷蔵庫にあったものや、おつとめ品の野菜で作る、適当野菜炒めや適当煮込みが多かった。高校を出て一人暮らしをしてからは、田舎暮らしが多く、外食の習慣を身につけるような環境ではなく、自然と自炊をするようになっていた。自分の食べる飯くらいは、自分で料理することができた。食べるのは好きだった。自炊はそこまで苦ではなかった。しかし、自分で食べるものをつくるのと、人様に食べていただくものを作る料理はまったく別物である。自炊歴はそこそこ長くなってしまったが、料理の、腕前には自信がない。そして、そんな状態のまま結婚し、共働きの家事分担の結果、私は昼食と夕食の担当になっている。

 二人暮らしになったことで、夕食を料理することのコストパフォーマンスは向上した。一人分を作るのも二人分を作るのも、手間としてはたいして代わりはない。食材費も倍にはならない。しかし意識面は、大きく違う。やはり、作った料理を自分だけが食べるのと、食べてくれる人がいるのとでは大いにちがう。料理に使う野菜の量も増えたし、食卓に並ぶ皿数も増えたように思う。一人暮らしの時には一度も買わなかったブドウも買った。スーパーの半額惣菜に頼ってしまう日もあるが、背徳感だけではなく、ちょっとした罪悪感も感じてしまったりする(とはいえ、半額唐揚げは夫婦揃って大好きだし、刺身は定価ではほとんど買わないのだけど)。

 自分で食べる分には問題を感じなかった自分の料理の腕も不安になった。料理をしっかりと習ったことはない。家庭科の調理実習も、ほとんど記憶には残っていない。知人や親戚に野菜や魚をいただくことがあるのだが、下処理の方法が分からないことがある。分からないことごあるたびに、インターネットで検索している。たしかにその都度調べれば問題はないのだけれど、こんな状態で、いいのだろうかと思うことはある。今から思えば母親は料理上手だった。食材の下処理をテキパキとこなしていた姿が、思い浮かぶ。

ついに料理本を購入しました

 現状に対する疑問は募り、ついに初心者向けの料理本を購入した。もととと料理エッセイやレシピ本は好きで、図書館に通うたびに借りていた。しかしレシピ本を実際に参照して、料理を作ることは稀だった。どうしてだろうか。レシピ本は見て楽しむものだった。
しかし、実用本位の本を、少なくとも一冊欲しいと思った。基本的な下拵えやよくある家庭料理の方法が書かれた本を手元に置いて置きたいと考えたのだ。

NHKきょうの料理ビギナーズ」ハンドブック 基本がわかる!ハツ江の料理教室』

 そして買ったのが、「きょうの料理ビギナーズ」のムック本である。これは放送用のテキストではなく、独立した料理本として読めるようになっている。特に料理の基礎的な事柄がまとまっており、さらに一冊あたりの値段も手頃なので(レシピ本の値段はピンきりだが、初心者向けの本は1500円~2000円程度のものが多い印象。この本は1100円だった)、手元に置く一冊として購入した。「きょうの料理ビギナーズ」の月間テキストの購入も考えたが、今回は様子見することにした。とりあえず、一冊ずつ。
 以下、目次。

 1時間目 まずは基本の”き”
 2時間目 もう迷わない! 食材の下ごしらえ
 3時間目 わかれば、おいしい! 調理テク
 4時間目 人気メニューをマスター
 5時間目 ハツ江の知恵袋 たれ&ソース

 この本の特徴は、料理のレシピよりも、その前段階の下ごしらえや各レシピに共通する「焼く」や「煮る」といった調理自体に、多くのページを割いていることである。計量の仕方や、火加減水加減といった基礎的なところもしっかりと解説してある。下ごしらえの方法が多く載っているのがありがたい。知っていることも多いが、知らなかったこともあった。ちょっとした豆知識も随所に挿入されており、眺めて見ているだけでも楽しい本となっている。ちなみにハツ江とは「きょうの料理ビギナーズ」に出てくるおばあちゃんのキャラクターである。本の冒頭には「きょうの料理ビギナーズ」に出てくるキャラクターの紹介ページもある。個人的には、とし子さん(ハツ江さんの長女)が42歳(の設定)だったことに驚いた。

 それから本の中にこんな言葉があった。

 献立のすべてにチェレンジせず、一品ずつ、丁寧にレッスンしましょう。繰り返しつくって得意料理にし、レパートリーを少しずつ増やしていく、そんな気持ちが大切です。

 一品ずつ、丁寧、か。せっかく本を買ったのだ。それにどうせ料理をしないといけないのだ。楽しみながら、家族に作る料理に向き合って行きたい。

 にしてもやっぱり、スーパーの惣菜をつまみつつ食べる缶チューハイは美味しかった。ああ。

カーアクション限界突破! ジョージ・ミラー監督『マッドマックス』【映画感想】

 今更ながらマッドマックス 怒りのデス・ロードに興味を持った。水耕栽培シーンがあるらしい。『怒りのデス・ロード』は、マッドマックスシリーズの4作目ということなので、とりあえずシリーズ最初から観てみようかなと思い、一作目を鑑賞した。ちなみに映画館で『怒りのデス・ロード』を観た知人は、マッドマックスシリーズはまったく観ていなかったが普通に楽しめたとのこと。27年ぶりのシリーズ新作だそうなので、前作を観ていない観客を視野に入れた作りになっているのだろうと推測。

 しかし、せっかくなのでやはり一作目から観た。Amazonプライム・ビデオで無料で観ることが出来たのも大きい(2018年10月時点では、三作目までは無料で観られる)。

暴力が身近な近未来。マックスの世界

 『マッドマックス』は1979年に公開されたオーストリアのアクション映画である。監督はジョージ・ミラー。この作品は監督の長編デビュー作でもある。映画は「今から数年後」という文字から始まる。近未来の秩序が崩壊しつつある、無法者たちが跋扈する世界で物語は展開する。
 物語の筋は単純だ。ナイトライダーを名乗る暴走族が警官を殺した上、警察車両を奪略し、暴走した。主人公である警官マックスが、同僚らと共に追い詰めた結果、ナイトライダーは事故死してしまう。それを良く思わなかったトーカッター率いる暴走族仲間は警官たちに復讐しようとする。そのいざこざにマックスや彼の家族は巻き込まれて…という話。
 まず、冒頭のカーアクションが目を引いた。なんというか、最近の映画にはあまりない乱暴さ。CGが発達していない時代の映画なので、全て実写のアクションだ。暴力感がヒシヒシと伝わってくる。車もバイクもぶつかり、壊れまくる。特に印象的だったのが、暴走族がカップルの乗った車をボコボコにするシーン。そのボコボコ具合が半端ではなく、車って鉄の物体に過ぎないのだな、と改めて思った。最近の映画でも、車が銃撃を受けたり、爆発に巻き込まれたりする映画は多々あるが、鈍器で殴り倒される映画はあまりないのではないか。ちなみにwikipediaによると、日本語吹き替えのテレビ放送版のタイトルは『激突また激突!カーバイオレンス限界描写 マッドマックス』だそう。確かに映画をよく表した副題ではある。しかしどうなんだろう、このタイトル…私はまったく惹かれないのだけど…80年代の感覚は現代とは大きく異なっていたのかもしれない。

 一方で、マックスの「マッド度」というのは、そこまで高くないように思った。確かに、最終的にマックスが選んだ手段は脱法的であり、褒められたものではないが、その行動原理は理解できる。(一方で、暴走族たち、特にナイトライダーがどうして暴走しているのかはよく分からなかったのだけれど)。「マッドマックス」というタイトルであるが、もしかすると「マッド」な「マックス」という意味ではなく、彼を取り巻く環境=荒廃した近未来、暴力が身近にある近未来が「マッド」であるということかもしれない。ところでこの世界、近未来という設定のはずだが、そこはかとなく漂う80年代感。21世紀の目で見ると、どうしても「今から数年後」に思えない。ひと昔前のどこまでも治安の悪い街で、暴走族が暴れているという映画に感じてしまう。警察や商店、駅があり、暴走族もちゃんと服を着ているので、あくまでも現実と地続きな世界という感じがするのかもしれない。
 それが、2作目になると一変するのだが……治安の悪い街から、終末の世界へ。これぞ、ディストピア
 
 そして、この2作目がとても面白かった。いずれまた、感想を書きたい。

ままならない人生を生きる ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』【読書感想】

 この小説の存在を知ったのは、数年前、インターネット上でのことだった。いくつかの読書ブログで絶賛されていたのだが、それらのオススメ文句が「地味な人生を書いた小説だが、それが良い」との主旨であり、興味を持った。ストーナーとは、その地味な人生を送った主人公の名前らしい。いつか読みたいなと思いつつも、なかなかその本に出会えず、だからといって書店に取り寄せてもらったり、インターネット通販で買ったりするほどでもなく、数年が過ぎた。

 9月の半ばに訪れた本屋でたまたま見つけたのが、この『ストーナー』だった。単行本で、白い美しいカバーがかかっていた。帯には「第1回日本翻訳大賞 読者賞」なる賞を受賞したと書かれていた。裏返して値段を見る。2800円。その日は映画を観た帰りだった。往復の交通費の2000円に映画代の1800円、それに加えての単行本の出費は少し痛い。それでも何かの縁だと思って購入した。

dokusyotyu.hatenablog.com
(↑購入した際の日記です)

 これが、正解だった。
 そして数年前に読んだ、この本のオススメ文は正確だった。たしかに何か大きな事件が起こる話ではない。主人公や脇役たちが、特別に魅力的かと言われるとそうでもない。ストーリーが奇想天外でも、描写が特別に優れているわけでもない。それでも、とても強い吸引力が、この小説にはある。

 ウィリアム・ストーナーは、一九一〇年、十九歳でミズーリ大学に入学した。その八年後、第一次世界大戦の末期に博士号を授かり、母校の専任講師の職に就いて、一九五六年に死ぬまで教壇に立ち続けた。終生、助教授より上の地位に昇ることはなく、授業を受けた学生たちの中にも、彼を鮮明に覚えている者はほとんどいなかった。

 物語はストーナーの人生を概説したこんな文章から始まる。ミズーリ州中部の貧しい農場に生まれたストーナーは、農学を学ぶために大学へ入学する。一生を農場で過ごすだろうと思っていたストーナーは、しかし、大学の必須教養科目の英文学概論の授業で、シェイクスピアに出会ってしまう。彼は英文学にのめり込み、そして人生を英文学に捧げることになる。
 私たち読者はそんなストーナーの人生を追体験する。一目惚れの後の結婚とその失敗、子供の誕生と成長、大学人としての働きと同僚との軋轢、そして教え子との愛と別れ、そして衰弱と死。
 ストーナーが生きた時代背景と私が生きる今の時代は、大きく異なっている。ストーナーが生まれたときには、過去の戦争とは南北戦争のことである。第一次世界大戦、恐慌、第二次世界大戦を彼は経験する。私にとって、それらは等しく教科書的な歴史である。そんな異なった時代背景を生きるストーナーの人生を描いたこの本が、私の人生に寄り添ってくれているように感じるのは、この物語が普遍的なものとしての人生を描いているからだろう。

 ストーナーの送った人生は地味だった。人生をかけて何かを成すこともなければ、家族に恵まれたわけでもない。しかし偶々大学で文学に出会ってしまい、そのまま文学の道で生きた人生を「普通」とは言えないだろう。いや、すべての人生はその人固有のオリジナルなもので、「普通」の人生というものはない。
 それでも私たちの人生には、共通することがある。それは、人生というものは、ままならないものである、ということである。人生はときに、その人生の主の意図しないところで大きく動くことがある。偶然の出会いが、天災が、人生を大きく変えることがある。あるいは、日々の選択の積み重ねが、いつしか大きな運命の流れとなり、思いもしなかったところに押し流されてしまうこともある。自分の思い描いた通りに生きられる人間は稀だろう。私自身も、いつも気がつけば思いもしなかった地点に立っている。五年前、十年前に描いた将来像とは、全く別の私がここにいる。あのときこうしていれば、ああしていれば、と思うことも多々ある。後悔と挫折、自分に対する失望に塗れた人生である。それでも私たちは、このままならない人生を生きなければならない。
 ストーナーも自問する。

 高潔にして、一点の曇りもない純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった。知恵を授かりながら、長い年月の果てに、それはすっかり涸れてしまった。ほかには、とストーナーは自問した。ほかに何があった?
 自分は何を期待していたのだろう?

 しかし、確かに、ストーナーはこの世界に生きたのだ。そして私も、このどうしようもない世界でままならない人生を生きているのだ。確かに、生きているのだ。物語はストーナーの死をもって終わる。傍目には挫折の連続と映るかもしれないストーナーの人生だった。そうではないのだ、ということをこの本は教えてくれる。読むと不思議と元気になれる、まだ、前を向くことができる、そう思えるような小説である。今後も何かの折にふれ、読み返したい。

ストーナー

ストーナー