読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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北森鴻のデビュー作を読む。『狂乱廿四孝』【読書感想】

 何度かこのブログにも書いている気がするが、北森鴻というミステリ作家の物語が好きである。初めて北森鴻さんの物語を読んだのは小学六年生のときなので、彼の物語とはかれこれ二十年弱の付き合いである(ちなみに初読は、ミステリアンソロジーに収録されていた短編バッド・テイスト・トレイン』だった)。
 何度も読み返した物語がある一方で、一度も読んだことがないものもある。ある晩、北森鴻好きを名乗るには、少なくとも文庫化されている本くらいは読むべきなのではないのか」と思い立ち、手に入る文庫本を本屋なりネットの古本ショップなりで買い集めた。デビュー作から順番に読んでいこうと思い、手に取ったのが『狂乱廿四孝』。第四回鮎川哲也賞を受賞した作品である。
 角川文庫と創元推理文庫から書籍化されている。今回私が読んだのは角川文庫版。角川文庫版には、この物語の元となった短編『狂斎幽霊画考』が収録されている。創元推理文庫版には『双蝶闇草子』という別の短編(どうやら『狂乱廿四孝』の登場人物が再度活躍する物語らしい)が収録されているそうなので、創元版もいずれ読んでみたい。
 『狂乱廿四孝』、書名は以前から知っていたが、未読であった。何故かというと、タイトルから時代小説っぽい雰囲気が漂っているからだ。時代小説をあまり読まずに過ごしてきたので、なんとなく敬遠していたのだ。同じ理由で『蜻蛉始末』も未読。

『狂乱廿四孝』を読む。

 さっそく読んでみる。
 時は明治三年。舞台は、まだ江戸の気配が濃厚に残る芝居の町・猿若町。歌舞伎の公演期間中に殺人事件が起こる。被害者の殺され方は半年前に起きた別の殺人事件と酷似していた。また、どうやら事件は一枚の幽霊画が関係しているよう。戯作者河竹新七の弟子・峯が事件の捜査に乗り出すが……という物語だ。
 この物語のすごいところは、幽霊画が狂画師・河鍋狂斎が描いた実在する画をもとにしていることと、登場人物の大半も実在した歌舞伎役者や戯作者であることだ。河鍋狂斎の画は、文庫の表紙絵にもなっているが、よくこの画から物語を思いついたなと感心した。私は歌舞伎に詳しくないが、登場する役者たちも有名な人たちという。しかしこの実在する人物たちが時代小説を読みなれない私にとっては、くせ者だった。一人の登場人物に対して複数の名前(本名・芸名・屋号など)があるのだ。一人の人物に三つの名前とかロシア文学かよ、と思った。登場人物も多い。
 読みにくさは多少あるものの、それでも読み始めると止まらない。半日ほどで読了。

北森鴻らしさ」を感じる。

 「らしいな」と思った。北森鴻さんらしい。
 このデビュー作からは、後年の物語に繋がる要素を感じた。文体、一人称視点の挟み方、料理の描写、モチーフの選び方。そして物語を駆動する原動力となっているのが「情」であるところ。
 「情」というのは今回この物語を読み終えて初めて浮かんできた言葉だ。このミステリは「ホワイダニット」の色が強いのだが、それでいながら人間の醜い部分が全面的に出てこないところが、北森鴻さんらしさなのではないのかと思う。
 そして私が北森鴻さんの物語に惹かれ、香菜里屋シリーズを永遠に読んでいたいと思うのも、物語の根底に「情」「人情」があるからなのではないか。

 今後私は、他の本の読書の合間に、北森鴻さんの本を読み返していくつもりだ。今回、漠然と感じた「北森鴻らしさ」をもっと言語化できるようになりたいなと思う。
 次は『冥府神の産声』を読みます。北森鴻さんの中でも異色な作風(であると私は思う)の長編ミステリ。久しぶりの再読なので楽しみ。


dokusyotyu.hatenablog.com


狂乱廿四孝 (角川文庫)

狂乱廿四孝 (角川文庫)

『アンナ・カレーニナ』(トルストイ著 望月哲男訳)【読書感想】

 アンナ・カレーニナ、読みました。私はヴロンスキーとアンナのカップルが好きで、二人を応援しながら読んでいました。だからこそ後半になるにつれ、ページを捲るのが辛くなっていきました。恋心だけでは「生活」はままならない。文豪トルストイの大長編をひとことで言えば、そんな物語です。

アンナ・カレーニナ』を読む


 『アンナ・カレーニナ』は有名な書き出しから始まる。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

 この物語には完璧に幸福な家族は出てこない。どの家庭も大なり小なり問題を抱えており、それぞれ個別の物語を内包している。現実の生活の写し絵だ。

 驚いたのは、全編を通して読みやすかったこと。読み通すのに数年かかることも覚悟していたが、2ヶ月ほどで読み終えてしまった。光文社古典新訳文庫(望月哲男訳)で読んだので訳が読み易いということもあるが、この物語自体の筋が意外と単純だったということも要因だろうと思う。
 『アンナ・カレーニナ』は、アンナとヴロンスキー、リョービンとキティ、2組のカップルを中心に展開される恋愛・結婚小説である。美しく聡明な人妻アンナと金持ちの若い伯爵ヴロンスキー。田舎を愛する純朴な男リョービンと10代の少女キティ。タイプの違う2組のカップルの馴れ初めから結末までを追う物語となっている。社会の慣習や離婚制度など、現代の日本とは異なるところも多いが、ベースは恋愛と結婚なので理解し易い。情熱的な恋心だけでは生活である結婚はままならない。そのままならなさを、2組のカップルを中心とした悲喜劇として描いたのが『アンナ・カレーニナ』なのである。
 
 「恋愛」をこの物語の縦糸とすると、物語を深め豊かにしている横糸は、彼らの「生活」である。
 物語は様々なイベントで彩られる。社交パーティー、観劇、競馬、選挙、海外旅行。そして何よりも彼らの仕事。リョービンが愛する田舎の農作業(リョービンは地主貴族であり、受け継いだ土地で農業経営を行っている)をはじめ、当時の貴族たちがどのように働き、どのように稼ぎ、どのように稼いだ金を使ったのかということが、繰り返し描写される。生活の様式や仕事の内容などは、現代日本とは色々と異なってはいるが、生活と仕事と金が切っても切れない関係であることは現代と共通している。人生とは仕事の連続であり、どのように稼ぎ、どのように金を使うのかということは、如実に人格を表す。
 金との関わり方を描いたシーンで一番好きだったのが、ヴロンスキーの「財布の洗濯」の場面である。夜に一人で自分の財政状況の見直しをする、というちょっとしたエピソードなのだが、彼の現実的な一面が垣間見ることができ、興味深かった。

 また多様な登場人物の家族のあり方も物語世界を豊かにしている。特に印象的だったのは、キティの姉ドリーが結婚生活を嘆くシーンである。夫婦ともに公爵の家出身でありながら、子沢山で家計は火の車。なのに夫のオブロンスキーは若い踊り子に入れあげている。それでも離婚をしないドリーは、ある日一人になって、15年の結婚生活を振り返る。

これはすべて何のためだろう? こんなことをしていて、いったいどうなるのだろう? 私のようにひと時も休むまもなく、妊娠して、授乳して、いつも苛々して、愚痴ばかり言って、自分を苦しめば人をも苦しめて、夫に嫌われて一生を過ごした結果として、育ってくるのは不幸な、育ちの悪い、貧しい子供たちじゃない。

一番幸せな場合を想像してみても、もう1人も子供を亡くさないで、何とかわたしが育てあげることぐらい。せいぜい子供が不良にならないくらいで上出来だわ。それくらいがわたしに望めること。たったそれだけのために、どれほどつらい苦しい目にあってきたことか……一生が台無しだわ!」

 善良な普通の人間、良い母親であるドリーの束の間の嘆きに共感を覚えた。また貴族といえども、大変だったのだなと同情した。それから少し、妊娠・出産・子育てが怖くなった(ドリー曰く、「妊娠して、つわりがきて、頭が鈍くなって、何にも興味を失って、そして何よりもあんなに器量が落ちるんだから」)。

 とはいえ、ドリーは母親としての自分を見失わないし、忙しい毎日のなかに現れる小さな幸せを大切にすることを忘れない。あくまでドリーの後悔はひと時の心の揺らぎであり、誰しもが覚えがあるものだろう。
 『アンナ・カレーニナ』の面白さはこのような人生で直面する「揺らぎ」をしっかりと書いてあるところであると思う。
 現実でいい加減なことが嫌いなヴロンスキーは人妻であるアンナと本気の恋をするし、美しく聡明なアンナは夫カレーニンとの間の子供とヴロンスキーの間にあって取り乱し愚かな判断をするし、人を愛することが出来なかった冷徹なカレーニン新興宗教に救いを求めるし、無神論者のリョービンは子供の誕生を前にただ一心に神に祈る。
 人生は思った通りにはならないし、自分の心もいつでも制御できるとは限らない。だからこそ、フィクションとしては面白い(現実では面白がってばかりもいられないのだけれど)。

 とつらつらと書いてきたが、この物語で一番面白いのはやっぱり「恋愛」のシーンだ。アンナとヴロンスキーが恋に落ち、そして雪降る鉄道駅で再会するシーンはドラマチックすぎるぐらいドラマチックだ。リョービンの兄コズヌィシェフとキティの友人ワーレニカの茸狩りのシーンの恋のはじまりの予感に満ちたシーンも好き。

 ところで。私は自分が恋愛・結婚するならヴロンスキーが良いのですが、皆さんはどうですか?
 それから、アンナとカレーニンが円満に離婚していれば、この物語はどのようになっていたかなとも思う。アンナには幸せになってほしい。
 個人的に不満な点としては、登場人物たちの年齢があいまいなところ。恋愛小説であるので、登場人物同士の年齢差が気になります。オヴロンスキー(35)とドリー(34)、リョービン(32)くらいしか明記されていなかった気がする。あとはカレーニンがアンナより20歳年上なことくらいか。結局、アンナとヴロンスキー、どちらが年上なのだろう……読み落としたかな……


Wシリーズに繋がる物語。『女王の百年密室』(森博嗣著)【読書感想】

 15年ぶりぐらいの再読。森博嗣さんの女王の百年密室。我が家には何故か単行本と文庫本の両方がある(『女王の百年睡魔』も二冊ある。『赤目姫の潮解』は単行本だけ。文庫版解説はブログ「基本読書」の方が執筆されているので、文庫でも欲しい気がする)。15年前は単行本で読んだので(意外と覚えているものだ)、今回は文庫本で読んだ。
 アンソロジー『日本SFの臨界点』を読みSF熱が高まったので、以前から読み返そうと思っていた本書に手を伸ばした。Wシリーズを読み終えたら、WWシリーズを読み始める前に復習しておこうと思っていたのだ。思っているままに時間が過ぎ、WWシリーズはすでに4冊も刊行されている。私の読書スピードよりも著者の執筆スピードの方が早い。積読本が増えていく。著者の本についてはエッセイや新書についても積んでいる……WWシリーズ以外の未読のシリーズも積んでいる……きっと幸せな状態なのだろう。

女王の百年密室』を再読した。

2113年の世界。小型飛行機で見知らぬ土地に不時着したミチルと、同行していたロイディは、森の中で孤絶した城砦都市に辿り着く。それは女王デボウ・スホに統治された、楽園のような小世界だった。しかし、祝祭の夜に起きた殺人事件をきっかけに、完璧なはずの都市に隠された秘密とミチルの過去は呼応しあい、やがて――。
  (裏表紙の紹介文より)

 さて、久しぶりの再読だ。読んだということ、主人公二人のバディのこと、衝撃的なエピローグについては覚えていたが、本編についてはこの15年で悲しいくらい忘れていた。なので初読時のように楽しめた。だけれども初読時とは違うのは、直接的ではないにしろ、百年シリーズがWシリーズの前日譚にあたるものだという認識があることだ。無意識のうちに『女王の百年密室』の舞台の人工的な街「ルナティック・シティ」をWシリーズの「ナクチュ」に重ね、本書とWシリーズを比較していた(この読み方が正しいかどうかは別だが)。

 驚いたのは『女王の百年密室』が記憶していた以上にミステリチックだったということだ。タイトルに「密室」とあるくらいし、文庫の裏表紙の紹介文にも「神の意志と人間の尊厳の相克を描く、森ミステリィの新境地」とあるので、ジャンルとしてのミステリィであることは間違いないのだが、もっとSFっぽいのかなと思っていた。事件の舞台となる「宮殿」については、ミステリではお馴染みの「平面図」までついている。読んだときの感触もWシリーズよりも、そして二人だけになったなどに近いように感じた(初版発行年が近いからかもしれないけれども)。
 その一方で、この本の魅力がミステリィとしての謎解きにあるのではなく、SF的な世界観やテーマにあるのも確かだろう。純粋なミステリィとして読んでいると、ちょっとそのトリックは反則なのでは、と思ってしまうかもしれない。「死」を克服した楽園である「ルナティック・シティ」は間違いなく一種のユートピアであるし、その世界に生きる人々の在り方を描いている、またその町の成立過程を仄めかしているという点で、この本はSFだ。そしてそんなSF的世界だからこそ、成り立つトリックなのである。また逆に言えば、トリック自体がこの街に生きる人間の世界観を表しているともいえる。

 その世界観のなかで、読者が突き付けられるのが「生きているとはどういうことか?」というテーマなのである。このテーマはそのままWシリーズにも通じるものでもある。Wシリーズには『私たちは生きているのか?』『人間のように泣いたのか?』といった直截的なタイトルがついたものもある。そのテーマは、言葉を換えれば「生きていることの価値とはなにか?」「人間であるとはどういうことか?」ということになる。
 だからこそ、なのだろうか。主人公ミチルは驚くほど感情だ。Wシリーズでは感情的な人物がほとんど出てこなかったので、なんだかとても新鮮だった。また主人公以外の登場人物たちは、ほとんどみんな冷静で感情を制御しているのに対し、主人公のミチルだけがひとり感情的であることも(ミチルの同行者のロイディは初期型ウォーカロン(ロボット)なのでそもそも感情がない)、ミチルの異邦人としての特異性を際立たせているようにみえる。そしてその感情的で異邦人的であるミチルの存在が、外部から閉鎖された楽園で起こる物語を前に進めていく。
 ここで描かれている自給自足の理想郷「ルナティック・シティ」は一見、恒久的な機構であるようにみえる。しかし永遠はない。永遠なのは「死」だけだ。人間であるミチルはその存在をもって、世界に有限性を示す。有限性は「生」の本質のひとつであろう。
 

性別の超越

 さて。本書に限らずなのだが、森博嗣さんの書く物語で特徴的なのは性別の書き方だろう。いずれ「森博嗣作品とジェンダー」みたいな論考がなされるだろうと思う。私が知らないだけでもう書かれているのかもしれない。
 インスタントラーメンを食べたら男女が逆転するという設定の連作短編集墜ちていく僕たちがあるし、Vシリーズの主要登場人物の一人はごく自然に女装をしているし、Wシリーズにはシリーズ10作を読んでも性別が判明しない人物も出てくる(アネバネ、君のことである。スカートを履いている描写はあるが、もちろんスカート=女性ではないので、性別は不明なはず)。彼らはいとも簡単に性別という記号を超越していく。もちろん男女の恋愛を扱った小説も書かれているが(どきどきフェノメノンなど)、そこでも登場人物たちは、いわゆる「男らしさ・女らしさ」というものから解放されているようにみえる。
 森博嗣さんの小説を読んでいると人間にとっての性別は、本質的なものではないのだなと思えてくる。その自由さは、とても人間的なものに思える。
 この『女王の百年密室』でも、性別は一つの重要なファクターとして登場するが、しかしそれは決して登場人物の人格を縛るものではない。

「サエバ・ミチル、あなたは男性ですか?」彼女は綺麗な声で尋ねた。
 彼女は腕を組んでいる。両手を膝に乗せて、姿勢良く背筋を伸ばしていた。視線は僕を真っ直ぐに捉え、ひとときも逸れなかった。
 僕は深呼吸をする。なんとか自分の頭脳とアクセスすることに成功した。
「性別は、現代では、人種と同じくらいクローズドな情報です」僕はなんとか答えた。

 そしてそのことが、エピローグのコペルニクス的転換に鮮やかにつながっていく。エピローグの衝撃はしっかりと覚えていたが、それでもよく出来ているなと思った。あまり書くとネタバレになってしまうので、未読の方は是非一度読んでみてほしい。
 にしても本書『女王の百年密室』、漫画化やラジオドラマ化もされているらしい。それぞれのメディアでこのエピローグをどのように描いているのか気になる。小説だからこその部分が多分にある仕掛けだと思うのだけれども。