読書録 地方生活の日々と読書

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死と生を考える長編詩。伊藤比呂美『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』

これは詩なのかエッセイなのか小説なのか。はたまた呪いなのか。

そんなことを考えなのか読みはじめた詩人伊藤比呂美による『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』だが、読み終わった今はこう思う。そんな分類どうでもよい。
これはすごい本だ。

図書館の詩集コーナーで見つけた。
表紙のデザインは、赤色と臙脂色の間のような色を背景に、筆で書いたようなフォントで書かれた黒文字の題名というシンプルなもの。
開いてみると、上下の余白が極端に少なく、フォントもちょっと特殊だ。
ブックデザインやフォントの知識がなく的確に表現できないのだが、普通の本とは違う。よくある詩集とも違う。
思わず借りた。読んだ。
読み終わった今、圧倒されている。

長編詩、なのだろうか

やはりこれは詩なのだろう。長い詩は苦手だ。だけれどもこの本は夢中になって読んでしまった。
独特の文体のもとで書かれているのは著者の日常。
日常、のはずなのに、そこで書かれている日常は常に老いと死の影が色濃く匂う。
五十になる著者。その老いた両親。ずっと年上で先に死ぬであろう夫。若くして癌の疑いのある友人。社会に適応できない次女。
書かれている日常は、幸せとは形容しがたい。
例えば、著者は夫と住むアメリカから、日に日に衰えていく日本の両親を思う。

わたしは思う、わたしの両親はともに寂しくてそしてふしあわせだと、それがわたしを悩ませる、とわたしは友人に語りました。
 母は病院で寝たきりで、二十分おきに看護師がやってきて向きを変える。
 父は家で犬と暮らす。日本の朝、娘から電話がかかってくる。元気だよという。  (p168)

読者の私は思う。歳はとりたくない、と。早く死にたいと。
著者の友人である年上の詩人も言う。「早く逝きたいなと思って」。友人はパーキンソン病と糖尿病を患っていた。

 昔の人たちもね、年を取った人たちが、早うお迎えが来ればよかばってんってよくいってました、しかし生命力というのは個々に違うから、「生かされる」ということ、ありますよね、ほんとうにおたくのおかあさん、お気の毒、お苦しいと思います。
 やっぱりわたしたち、どこから死がやって来る、あるいは命が終わるまで生きていなくちゃいけないのでしょうか。
 そうですね。
 その覚悟でいらっしゃいますか。
 そうですね。  (p245)

私は、そんな覚悟はできない。そんな覚悟もなく、早く死にたいと思っている。毎日のように。
この本には「生」惨さというものが行間からこれでもかというほど滲んでいる。
きれいごと、では終われない動物としての人間の悲しさが描かれている。それはしょうがないことだ。生きるのは苦しいこと。「老い」も「死」も生きている限り、誰でもが通る道である。

「死にたい」と思うのはおかしいことか。

ところで。私の指導教官は再来年定年退職である。
私は先生のことが時々羨ましくなる。孫もいて、家もあって、仕事も定年まで勤め上げて。あとは悠々自適な生活だ。
60を過ぎた先生は、まだ20代の私たちの若さを羨むのかもしれない。
しかし若さが何であろう。
寿命というのは誰にもわからない。こんなことを書いておきながら、明日には死ぬかもしれないし、もしかしたら今の祖父母の年齢以上に長生きするのかもしれない。
祖父は80を越えている。耳は遠くなってしまったが、足腰も頭もしっかりしている。喜ばしいことだ。
喜ばしいことだ。孫としては出来る限り長生きしてほしいと思う。
だけど。もし、私が祖父と同じぐらい生きるとすれば。
あと50年以上も生きないといけないとすれば。
気が遠くなる。
50年も生きないといけないなんて。

幸せな悩みだ。それはわかっている。十分にわかっている。「生きたくとも生きられない人もいる」。正論だ。でも、正論が何になろう。正論も、理想論も、きれいごとも、私を救いはしないだろう。
でも、残念ながら、この社会には思ってはいけないことは多すぎる。
「死にたい」ということも、どうやら、思ってはいけない言葉らしい。

幸か不幸か、死にたい生きたくないといくら思ったところで私は自殺できるほど強い人間でもない。
だからこうしてひっそりとブログに書く。あるいは詩人になれば、もっと言葉を発することが出来るのだろうか。

読書録

『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』
著者:伊藤比呂美
出版社:講談社
出版年:2007年

とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起

図書館で借りて読んだが、購入して手元に置いておきたいと思った。講談社文庫でも出てるようだ。
自分が50歳になるまで、もし死んでいなかったら、そのときは是非読み返したい。