読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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日記を読み返す。

今週のお題「2016上半期」

2016年も半分が終わった。
終わってしまったのか、まだ半分も残っているのか。

端的に言えば、人生に迷っている。

いや「迷う」という言葉は正しくない。
過去への「後悔」と未来への「諦め」、その結果としての倦んだ毎日。
諦めたら諦めたで、ただただ淡々と生きていければいいのに、ふと考えてしまうのは「もしあのとき別の決断をしていたら」という存在しない可能性としての人生。
人生は誰かと比較するものではない。
特に想像上の人生なんかと比較したところで惨めになるだけだ。
分かっている、分かっているのだけれども。

2016年上半期。私は今後の人生を左右するであろう大きな決断をした。
いや、決断したのではない。流されたのだ、いつものごとく。
本当に「それ」が、私の望んだ結論なのか、実はよくわからない。
でも気づいたらもう後戻りができない地点にいた。
いや、後戻りしようと思えばできる。しかし後戻りの是非を考える、その気力すらもはやない。

自分が悩む速度より、自分が歳をとる速度のほうがずっと早くて、私は気づいたら後悔ばかりしている。

私は怠惰で三日坊主な人間だ。
そんな私でも日記をつけていたころがある。
久しぶりにその日記を開いた。今より若くて、多少は人生に情熱が残っていたころの過去の自分に慰めを求めたのだ。

2013年ころから2年ほど、不定期に書いていた日記だ。
読んで驚いた。まったくもって思考が変わっていなかったのだ。そりゃあたったの2年前かもしれない。しかし当時と今とでは、住んでいる場所も社会的な身分も日常関わる人も違う。
が、当時も私は同じようなことで悩んでいた。
そして、同じような悩みで悩んでいることについても悩んでいた。

そのころの日記から抜粋。

2014年6月19日

クンデラに影響され、運命と人生の主題の繰り返しを思う。
ある意味、私の人生はもはや変わりようがない。主題が形を変えて現れる変奏曲なのである。

自分の日記を読み直す。意外と面白いと思う自分がいる。もっともっと書き写したいぐらいだ。
同じようなことで悩んでいる自分がそこにはいて、しかし、悩みはすれど過去の私は確かに生き延びて、今ここに同じように悩みつつ生きる私がいる。すべての悩みは時間が解決する。解決しなくとも時間は過ぎる。時間が過ぎれば状況は変わる。私は老いる。

2016年も残り半分。
自らの力で未来を変えるほどの気力も体力もない臆病者の私は、時が経ち状況が変わるのを、この田舎町の2DKの部屋で待っている。
受動的な生き方、若さの浪費、社会が決して推奨しないだろう生き方。
死を待つような生き方だ。それでも、死にたいと思いつつも生きるのは、5年後10年後の私が、人生という荒波に流された先にどのような景色を見ているのか興味があるからだ。もちろん、そのころも同じようなことで悩んでいるかもしれない。
10年後、比較したくなったときのためにも、また、日記でも書いて残しておこうかなと思う。