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北氷洋捕鯨小説『北氷洋』(イワン・マグワイア著)【読書感想】

 発売当初より、書店で見ては読みたいなと思っていた小説をついに読んだ。イワン・マグワイア著の『北氷洋』。もうタイトルからそそる。そして文庫本の表紙絵。白波が立つ海の向こうには氷山があり、その手前には帆船、そして捕鯨ボートに乗った銛打ちと鯨が対峙しているという素敵なイラストである。私の好きな物語の要素が全て詰まっている。特に帆船ーー帆船が出てくる物語に外れはない。
 帯には「本年度海外エンタメNo.1」の文字。新潮社のサイトには「呪われた航海で生き残るのは誰だ!? 圧倒的な筆力で描かれるサバイバル・サスペンス。」との煽り文句。その割にはネットでは話題になっていなかったような気もするが、期待して表紙を開いた。

北氷洋捕鯨を舞台にした冒険譚

 19世紀半ばの英国。捕鯨業界は斜陽にあったが、それでも港には腹に一物を抱えた男たちが一攫千金を目論見集まっていた。訳ありな男の筆頭が、この物語の主人公となるサムナーである。除隊された元軍医にしてアヘン中毒患者であり、アヘンがなければ眠ることもできない。そんな彼が「訳あり」な捕鯨船ヴォランティア号に乗り込むことで物語は進んでいく。船長はかつて別の捕鯨船を沈没させた経歴をもつブラウンリー、一等航海士キャヴェンディッシュは嫌われものだし、銛打ちは凶暴で人を殺すことをなんとも思っていないドラックスに、信仰心の厚いドイツ人のオットー。一癖も二癖もある男たちを乗せた船は鯨を追って、危険な北氷洋へと進んでいく。

 物語は「この男を見よ」という印象的な一文から始まっている。
 心躍る海洋冒険小説かと思い読み始めたが、すぐにそれが誤りであることに感づいた。

この男を見よ。
 クラピソン広場からサイクス通りにふらりと現れた男は、そこで一息つく。吸い込んだ空気には雑多な臭いがまじっているーーテレピン油、魚粉、辛子、黒鉛。そして、夜明けに尿瓶から路面にあけられたばかりの、常と変わらぬ濃い尿の臭い。  (p7)

 悪臭の描写から始まる物語から予感されるように、この物語は生々しい臭いが伴った暴力に満ちている。そう、これは「こういう」物語なのだ。血生臭さに満ちた描写と人間が簡単に死んでいく様に、19世紀に生まれなくて良かったというピントはずれな感想を抱いたほどである。
 嫌悪感を覚えながらもページを捲る手は止まらない。船上での殺人、嵐、氷上におけるシロクマとの遭遇といった脅威が次々とヴォランティア号の乗組員たちを襲っていく。主人公サムナーはアヘンの夢に溺れ、北氷洋に溺れ、それでも彼の体は厳しい自然の中で生き抜くことを選んだ。もう物語の半ばからは捕鯨どころではないのだけれども(物語のタイトルは『北氷洋』であり「北洋捕鯨」ではないのだ)、北氷洋の自然を前に小さな人間のひとりに過ぎないサムナーが巻き込まれる運命に一気読みしてしまった。

19世紀の捕鯨船に紛れ込んでしまった現代人

 面白いのはこのサムナーの人物像である。19世紀半ばの荒っぽい捕鯨船上において、一人サムナーは異人である。彼は今航海でたまたま船に乗り込むことになってしまっただけであり、海の男たちの中で一人船乗りではない。それだけでなく、彼の精神性というものが、現代人である私たち読者に近いのだ。すなわち死や暴力が今よりもずっと近くにあったはずの19世紀の洋上において、彼はあまりにも繊細、ナイーブである。彼が阿片を常用しているのも、辛い過去と現実を耐え忍ぶためであるが、そんな彼を私は批判できない。現代人が19世紀にタイムスリップしたとして、はたしてその現実(死や暴力への近さ、生活の不潔さ)に向き合えるだろうか。私は自信がない。
 この物語において主人公サムナーは、現代人の視点を持って北氷洋を旅する。だからこそ彼は苦悩し、そして自らの物語を自らの手で終わらせることを選び取ったのではないか、と私は思う。

『白鯨』読みたい

 さて。捕鯨の物語といえばメルヴィルの『白鯨』である。『白鯨』は南洋捕鯨を舞台としているし、物語の筋も書き方も『北氷洋』とは大きく異なる。それにも関わらず、この『北氷洋』を読みながら、私は『白鯨』を読み返したくなった。
 あとがきで訳者の高見浩さんも『白鯨』に触れてこう書いている。

『白鯨』が、超越的な存在である巨鯨にエイハブという一人の尊大な人間が立ち向かう一種神話的な物語であるとしたら、本書は自然対人間、あるいは人間同士の関係性からぎりぎりの極限状態に追い込まれた登場人物たちが必死にサヴァイヴァルを図るさまを描破した、より人間臭い物語と言えるだろう。 (p470)

 『白鯨』は一種神話的な物語だったのか。それはともかくとして、確かに『白鯨』と比較すると、本作はより人間というものを掘り下げており、そして何よりもエンタメ側に大幅に寄せてある。だから『白鯨』よりもずっとずっと読みやすい。

 それでも読みやすさだけでは読書の面白さは測れない。ということで、現在また少しずつ『白鯨』を読み返している。我らがピークォッド号はようやくナンターケットを出港したところである。

北氷洋: The North Water (新潮文庫)

北氷洋: The North Water (新潮文庫)