読書録 本読みの貪欲

近畿地方の某田舎町で一人暮らし中。

就活生としての私と『無痛文明論』

ちょっと考えてみた。
というのも、就活に口出ししてくる親に、自分では珍しいぐらいにイライラし、読んでいる本を通して自らを客観視する必要を感じたからだ。就活生の皆さんは、親からの口出しをどのように乗り切っているのだろう。
以下、読書感想という名の自分語り。
本読んでブログ書く暇があれば履歴書書けよ自分、とは思っている。

無痛文明論森岡正博
第一章 無痛文明とは何か
第二章 無痛文明における愛の条件
第三章 無痛奔流
第四章 暗闇のなかでの自己解体
第五章 身体の欲望から生命の欲望へ
第六章 自然化するテクノロジーの罠
第七章 「私の死」と無痛文明
第八章 自己治癒する無痛文明

無痛文明

「無痛文明」とは何か。
著者の定義は少し難しい。

われわれの文明においては、人間の「身体の欲望」が、人間自身から、「生命のよろこび」を奪っているのである。   (p18)

著者の言う「われわれの文明」が「無痛文明」である。
そして「身体の欲望」とは、

 (1) 快を求め苦痛をさける
 (2) 現状維持と安定を図る
 (3) すきあらば拡大増殖する
 (4) 他人を犠牲にする
 (5) 人生・生命・自然を管理する

といった欲望である。
つまり、痛みや苦しみがなく、自分の予期したとおりに進む安定した人生を望むことである。
就活との関係を考える際には、特に(2)の欲望が重要になってくる。

予期せぬ事故にあって計画がめちゃくちゃになったりしないような人生。大切な人を途中で失ったりしないような人生。いろんなことがあったとしても、最後にはハッピーエンド、よかったと胸をなでおろすことができる人生。きちんと貯蓄をして、老後の生活設計をおこない、決められたことを毎日ひとつずつこなしていく安定した人生。  (p11)

私は無意識のうちに以上のような人生を望んでいる。
平凡で安定した生活、人生を。
そして「平凡」が表わす生活が、本当に「平凡」で当たり前な生活なのか問うことはない。思考停止。

一方、「生命のよろこび」とは、苦しみのなかで、もがいているうちに、今までの自己が解体し予期せぬ自己へ変容する際に訪れるよろこびであると言う。
予期せぬ自分に出会うよろこび。
新たな自己、新たな価値観に出会うよろこび。
予定調和から逸脱した苦しみと自己の変化の末に、不意に現れるよろこび。
真に自分の人生を生きるためのよろこび。

整理する。
「身体の欲望」=安定、現状維持
「生命のよろこび」=変化、自己の解体と再生、真の成長

ここでは私の理解が及ぶように、「無痛文明=予期せぬ出来事を避け、予定調和を望む人々で構成された世界」として考えていこうと思う。

「無痛文明」の文脈でみる就活

私が直面している就職活動は、予定調和なシステムの内に組み込まれている。
小学生が中学校に進学するように、大学生はある時期から就活生となる。
就活サイトに登録し、エントリーシートを出し、能力検査を受け、面接をくぐりぬけ、内定を得る。
就活生の前には、予定調和なルートが敷かれている。
「無痛奔流」に流されるように、就活生はこのルートを辿る。
何故なら、今まで「無痛文明」が生み出してきたシステムや思想にどっぷりと浸かり生きてきたからである。予定調和な人生に疑問を覚えないように眼を反らし続けてきたのだから、今更不条理な世界に直面することはできない。

しかし就活がもたらす結果は決して予定調和なものではない

私は内定が貰えないかもしれない。
貰えても望む企業ではないかもしれない。

就活生は、心の奥底ではそのことに気づいている。
世界は不条理なのである。
私が生きてきた無痛文明、安定や予定調和は、就活およびその結果に脅かされている。

親=世間=無痛文明

そして就活における不安は、無痛文明から放り出されることへの不安といえる。
何故、不安なのか。不安の原因は大きく2種類あると思う。

(1) 非無痛文明のもつ不安
(2) 無痛文明に許容されないことへの不安

(1)について。
これは非無痛文明、つまり予定調和ではないことへの不安である。
何か起こるか分からないことに対する不安。
この不安は、しかし、未来に対する期待やわくわくに反転する可能性を秘めている。
「何が起こるか分からないから不安」は、捉え方を変えれば「何が起こるか分からないから人生楽しい」となる。

(2)について。
こちらこそ私的には深刻である。
予定調和な就職、望んだ就職が出来なかったこと、つまり「無痛文明」から逸脱することで、「無痛文明」に属する人や世間から見捨てられるのではないか、という不安である。

「就職できなかった私」は、はたして、親に、友人に、世間に、受け入れられるのだろうか。
私が受け入れられてきたのは、予定通りに生まれ育ち、順調に進学してきたからにすぎないのではないか。
予定通りの就職が出来なかった私の居場所はどこにあるのだろうか。

単なる見捨てられ不安?
自分に自信がないだけ?
分からなくなってきた。
ちなみに、このあたりのことは「第二章 無痛文明における愛の条件」や「第三章 無痛奔流」に詳しい。

抽象と具体

それでも親や世間は、人並みに就職することを望む。
自分だって、人並みに就職することを望んでいる。
しかしそれは、できるかどうか分からない。
ここに強烈な自己否定が生まれる。

そしてもう一段深く考えてみる。
そもそも私は人並みに就職するのを望んでいるのか。
私が望むのは本当に平凡や安定なのか。
葛藤。二段階の苦悩。混乱。

ところでこの「人並み」や「平凡」とは何だろう。
何かの基準があるのか。
いや、ない。
「人並み」「平凡」といった「無痛文明」が望むのは、抽象的なものである。
親は言う。
「良い会社に行きなさい」
私は言いたい。
「あなたの言う良い会社とは、どの会社であるのか」
きっと答えてはくれないだろう。
そもそも良い会社とは、一人ひとり違うはずで、それを判断するのは私自身だ。

私が就職するのは「良い会社」ではなく、特定の一社」である。
もしくは就職できなかった時に待ちうけるのは、具体的な生活だ。
就活において私が欲するのは、具体的な情報であり、具体的な内定であり、抽象的なお節介ではない。
もちろん、抽象的なお節介が、子供の安定した生活(=無痛化)を望む親心の帰結であることは承知だが。
このあたりの行き違いが、私がいらいらしている原因だろう。

私自身は何を望むのか

ところで先の疑問が解決していない。
そもそも私は人並みに就職するのを望んでいるのか。
つまり「無痛文明」のもたらす安定と、そこから脱した「生命のよろこび」と、どちらを望んでいるのか。
就活とは、予定調和な人生から、予期せぬ出来事が待ち受ける苦しいがよろこびもある人生へと乗り換えるチャンスでもある。
私の人生、決めるのは私である。
今すぐに答えは出ない。
喉から手が出るほど内定は欲しい。
しかしどちらを選ぶにしろ、「無痛文明」や親や世間を言いわけにしてはならない。
大丈夫、そのくらい、分かっている。

読書論

無痛文明論
著者:森岡正博
出版社:トランスビュー
出版年:2003年

無痛文明論


ちなみに本書は一年ぐらい前から読みたいと思っていた。
内容についてもいろいろと書いて考えたいことがある。
つまりは私にとっての良書である。

広告を非表示にする