『枯木灘』の前日譚 芥川賞受賞作・中上健次『岬』【読書感想】
疲れている。
用事があって横浜まで行ってきた。夕方の飛行機で田舎町に帰って来て、夕食を食べ、今この文章を書いている。そしてとても疲れている。
久しぶりに都会に出たせいか、長時間歩き回ったせいか、昨夜見た嫌な夢のせいか(教授にハードな実験日程を組まされた夢だった)、それとも時間つぶしとして読んでいた本のせいか。
一泊二日の旅程のなかで、本を二冊読んだ。二冊も読む時間があったら勉強しろよ、自分。たぶん、さぼって本を読んでたから、実験の夢なんて見たのだと思う。やけにリアルな夢で、起きぬけの頭で、実験予定は現実なのか夢なのかとちょっと混乱していた。
中上健次の中短編集『岬』感想
ところで、読んだ本の一冊が中上健次の『岬』であった。これが面白いが、疲れる小説だった。
中上健次といえば、1月17日に河出文庫の『枯木灘』『十九歳の地図』で、新版で出た。二冊とも去年買ったばかりだ。なんだか損した気分。『枯木灘』の新版には、後日談の短編『覇王の七日間』が新規収録されているらしい。読みたい。
『枯木灘』を読んだ時の感想はこちら。
今回読んだ短編集の表題作『岬』は『枯木灘』の前日譚である。舞台は『枯木灘』の2年前、主人公秋幸君は24歳。私と同年代である。
『岬』では『枯木灘』のように、ドラマチックな出来事は起こらない。血のつながらない父の法事を中心に、彼の日常が描かれる。そして『枯木灘』が秋幸と種違い兄と実父の関係を主軸として進んでいくのに対し、『岬』では秋幸と二番目の姉を中心に物語は進んでいく。この物語の主人公はもしかしたらこの姉なのかもしれない。いや、しかし、この物語のはじめとおわりでは、秋幸のある部分は確かに変化している。この変化を私の筆力で書くことは難しい。というか、中上の小説の感想を書くのはとても難しい。
中上健次の小説、特に紀州を舞台にした複雑な血縁関係に生きる兄弟に焦点をあてた小説を読むのはとても疲れる。短編集に収録されている『火宅』という作品も、『岬』とほぼ同様の関係性にある兄弟を描いたものであった。
読んで疲れるのは、登場人物たちが暴力的であるからかもしれない。今の時代であればDVと言われて、物語内のほとんどの男は、肩身の狭い思いをするだろう。物語内で振るわれる暴力のほとんどは、凶暴で、無意味だ。物語は暴力に満ちている。それと同じくらい、空しさに満ちている。その空しさは、まったく境遇の違うはずの私の中で、確かに共鳴している。
それから血縁や家族という繋がりの濃さに圧倒されるからかもしれない。秋幸たちが住むのは、プライバシーなど無い世界である。鍵など掛けていなさそうだし。人の家に気軽に上がり込んでいるし。人間の匂いの濃さに、核家族で育った私は、無意識のうちに拒否反応を起こしているのかもしれない。それでも、家族は家族であることや、血の繋がりからは逃れられないことは、現代を生きる私にも通じるものがある。
生きるとは疲れること。
中上が書く物語は、私たちが過去に捨てたはずの「繋がり」を思い起こさせる。人と人との繋がりとは、人が人である限り、綺麗事では済まない。一方で、私たちは綺麗事だけを求めている。「絆」「縁」「友情」「愛」。
秋幸は単純な肉体労働である土方の仕事を愛す。土を相手にする仕事は、確かな手ごたえがあるし、土は人間のように裏切ることはない。朝起きて、働き、夕方になれば帰ってくる。そんな毎日を愛する。シンプルで、潔く美しい。しかし、そんな秋幸も家族のしがらみからは逃れられない。
人間の内にはどうしようもない暴力性や性衝動があるし、どうしても切れない人間関係の中でもがくようにしか人は生きてはいけない。
生きていくのは疲れることなのだ。中上は作品を通し、そう叫んでいるのかもしれない。