読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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森博嗣さんの新書エッセイ『ジャイロモノレール』(森博嗣著)【読書感想】

 森博嗣の新書を2冊続けて読んだ。趣味的な夢の効用を解く『夢の叶え方を知っていますか?』と2018年の新刊『ジャイロモノレール』の2冊である。本のテーマとしては2冊とも通底しており、本当に自分の好きなことをしよう、ということである。
 本当に好きなこと、特に、なにかを作る趣味を持ち、それを追求しよう。その実例として『ジャイロモノレール』では、著者が2009年から取り組んでいるジャイロモノレールの製作について書いている。

まえがき
第1章 ジャイロとは?
第2章 ジャイロモノレールの理論
第3章 ジャイロモノレールの実験および試作機
第4章 他者の研究と今後の展望
第5章 個人研究の楽しさ
あとがき

 
 ジャイロモノレールとは何か。ジャイロ効果を利用して車両を自立させるモノレールである。現在実用化されているモノレールは、専用の大型の設備が必要である。一方、ジャイロモノレールは、既存の鉄道のレールを使用できるモノレールであり、建設費が少なくて住むというメリットがある。20世紀の初めに開発されたものであるが、実用化に至る前に世界大戦により開発は中断されてしまった。その後、ジャイロモノレールの技術は顧みられることなく、忘れ去られてしまった。著者はふとしたことから、この失われた技術であるジャイロモノレールの模型を製作に着手する。この本は、ジャイロ効果やジャイロモノレールの説明や、製作過程における試行錯誤について書かれている。そして最終章では、個人研究の勧めについて書かれている。

好きなことがない、という状態

 さて、この本。ジャイロモノレールについて書かれている部分も興味深く面白いのだが、心に刺さるのは個人研究の意義について書かれた後半である。個人研究とは、自分の本当に好きなものを探求することである。

研究とは、一言で表現すれば、自分が最初に知ることだ。世界の誰も知らないことを自分が突き止める、という行為を「研究」と呼ぶ。

対象はなんでも良い。どんなテーマでもかまわない。自分一人で没頭できるものを見つけて、そこに楽しさを作り出す。

 『夢の叶え方を知っていますか?』に書かれている内容と同様の趣旨であり、『夢の叶え方を知っていますか?』も読んでいると大変に心苦しくなる(だからこそ何度も読んでしまう)。両者とも私の人生における決定的な問題点を指摘しているからである。

 私の人生における最大の問題は、「好きなことがない」ということである。

 これらの本で著者は、自分の好きなことを探求することの、何事にも変えられない楽しさについて語っている。読んでいると著者が本当にそれらの活動を楽しんでいることが伝わってくる。私はそれをとても羨ましいことだと思う。自分だけの好きなことを見つけよう、と著者は繰り返し私に語る。そうすべきだ、と思う。毎日を楽しくする、熱中できるものが欲しいと思う。
 でも私の中を見つめ直してみても、好きなことは何もない。
 
 あえていえば読書は好きだ。今までの人生で、一番お金を費やしてきた趣味は間違いなく読書である。「趣味は何ですか」と問われたら「読書です」と答えるだろう。
 それでも私にとって読書は「hobby(=個人研究)」かと言われると言葉に詰まってしまう。
 私にとっての読書は、単なる時間つぶしでもあり、精神的な依存対象でもあるからだ。受動的な行為としての読書。
 
 受動的な読書を「hobby(=個人研究)」としての読書とするためにはどうしたら良いのか。言葉遊びだが、目指すべきは能動的、主体的な読書、ということになる。能動的な読書には何が必要か。
 ただなんとなく読むのをやめる。
 読書に目的をもつ。
 何のために読み、読むことで何を得たのかをはっきりとさせる。
 アウトプットを意識する。
 より良く読むために工夫をする。 
 読書は手段に過ぎないのではないか。私は読書に何を求めているのか。本を読むことで何を得たいのか。
 
 私は自分について知りたいと思っている。自分の生きる世界についても知りたいと思う。この世界で上手く生きられない私という存在の意味を知りたいと思っている。だから本を読んでいるのだと思う。この読書の目的をもっと具体的にブラッシュアップし、読書を通して個人研究をしていますと言えるまでに育てていきたい。
 
 

ディストピア小説を読む ユートピアとしての『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー【読書感想】

 ディストピア小説として名前だけは以前から知っていたすばらしい新世界。19世紀生まれのイギリス人作家、オルダス・ハクスリーによるSF小説である。1932年の作である。この度、光文社古典新訳文庫で読みました。訳者は黒原敏行さん。
 


 工業化が進んだ2540年、ついに人間が工場〈孵化・条件づけセンター〉で生産されて生まれるようになった世界。人間は計画的に生産され、彼らの身分は、細胞分裂の段階から決まっている。労働者階級となる受精卵はボカノフスキー法に分裂させられ、一つの卵が数十人の人間となる。規格化された人間は、規格化された工場で、規格化された労働に励むのだ。しかし彼らは幸福である。彼らは孵化器のなかで、過酷な環境に耐えられるようにデザインされているし、生まれてからは「今は誰もが幸せだ」と条件づけされるからだ。そして労働のあとには、すべての憂鬱を晴らせてくれるソーマが支給される。「鬱かなと思ったら早めのソーマ」、「一〇グラムは一〇人分の鬱を打つ」、「うらむより一グラム」、不安や怒りといったマイナスな感情はすべてソーマが解決してくれる。

 こんなユートピアに、何故だか疑問をもってしまった男バーナードが、恋人のレーニナと共に、ニューメキシコ居留地に「野蛮人」を見に行くところから物語は動き始める。世界には文明化から見捨てられた土地が残っており、そこでは昔ながらの習慣と劣悪な衛生環境と文明社会では廃れてしまった宗教と共に生きる人々が住んでいるのだ。バーナードはそこで、居留地に生まれた一人の青年にジョンに出会う。ジョンの母親は、孵化・条件づけセンター生まれの人間だったが、不幸な事故により妊娠中に居留地に取り残されてしまったのだ。居留地で生まれたジョンは文明社会を知らなかった。バーナードはジョンと彼の母親を文明社会であるロンドンに連れ帰ることにしたのだがーー

喜劇的なユートピア小説

 古典SFという印象があり、読みにくいのかなと思っていたのだが、まったくそんなことなくスラスラと読めた。ディストピア小説といえば、シリアスな雰囲気をもつ小説が多いが、この物語は全体的にどこか喜劇的である。私たち読者は、物語の登場人物たちを俯瞰的に追うことになる。洗練された人間であるはずの登場人物たちの絶妙な滑稽さを客観的な視点で見ることになる。彼らは私たちとは根本的に違うので(私たちは孵化器から生まれたわけでも、睡眠学習によって条件づけされたわけでもない)、彼らに感情移入はしにくい。だからこそ彼らの生きる世界や彼ら自身を、劇場にいる観客のような視点で見ることができるのだ。またレトリックや標語、そしてシェイクスピアの引用が多いので(非文明社会から来たジョンは、文明社会が捨て去った文学作品であるシェイクスピアの熱心な読者だったのだ)、それも劇的に感じる要因かもしれない。
 喜劇はテンポよくすすみ、そしてまさかと思うような結末を迎える。唐突なようにも思える終わり方だ。シュールであり、悲惨であるはずなのに、どこか滑稽な事件が起こり、それで幕引きだった。

 さくっと読める小説だが、世界観のディテールがとても示唆に富んでいる。
 この小説はディストピア小説というジャンルであるが、現代社会で溺れそうになっている私から見れば、その小説世界はユートピアに思えた。その世界には病老死苦のうち、病と老と苦が克服されている。医療は発達し、老いの進行は抑えられ、人間は六〇歳でポックリと死ぬ。その死も、条件づけによって「死=恐怖」という図式からは開放されている。苦痛にはすべてを解決してくれる精神薬ソーマがある。ソーマによって人は寛大になるので、そこには人間関係の煩わしさもない。恋愛は推奨されており、性による快楽を得るための団結儀式も隔週にある。消費だって美徳である。
 そして何より、私が、かの世界の住民を羨ましく感じてしまうのは、将来の不安から解放されているということだ。生まれたときから階級と仕事が決められているのだ。選択肢は与えられないが、それを不満に思ったり自分の可能性を追求したいと考える回路は、生まれたときから存在しないように出来ているので問題ない。彼らを羨ましく思うのは、私がこの自由溢れる世界において、未だに自分の進むべき道を確信できていないからだ。将来は不安でしかない。
 このように考えると、この世界の生きにくさとは、先が見えないということと正解が分からないということに収束するのではないか。私たちは、未来も現状もよく分からない世界に生きていて、それでも自分で自分の人生を決断し、生きていかなければならない。その重みにふと疲れてしまったときに、この物語世界は文字通りの「すばらしい新世界」として浮かび上がってくる。

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)

すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫)


以前に読んだディストピア小説。『侍女の物語』の読書感想。
dokusyotyu.hatenablog.com

読書ブログを5年続けてみた感想

今週のお題「読書の秋」

 先日、2018年11月18日に、このブログ『読書録 本読みの貪欲』は5周年を迎えた。長かったような短かったような5年間だった。

 飽きっぽさには定評がある自分である。ふと思い立って始めたブログが、ここまで継続できるとは。いや、そもそも継続していると言って良いのかどうか。更新は不定期だし、特に理由もなく半年近く更新をしなかったこともある。それでも今も更新しているのは、何だかんだ言っても書くことが好きだからであり、趣味である読書の喜びをお裾分けしたいからである。

 本が好きだった。というよりも、今までの人生で読書くらいしか継続してきたものがなかった。自分の人生から読書をとったら、いったい何が残るのだろう。子供の頃から、ずっと一人で本を読んできた。しかしある時、いつものように面白い本に出会った際に、「この本、面白いよ」と誰かに伝えたくなった。残念ながら当時の私には、読書友達がいなかった。だから、ブログをつくった。
 「この本、面白いよ」と言うのは、想像以上に難しかった。思い返してみれば、読書感想文も上手く書けた試しがなかったではないか。本を読んだ時の言葉にならないような感動を、どうにかこうにか言葉にする。面白い本というのは、往々にして、一言では言い表せないほどの感動を与えてくれる。だから面白く読んだ本ほど、ブログ記事に落とし込むのは難しい。書いては消してを繰り返し、結局記事をあげられないということも、未だに多々ある。今年読んで一番面白かった小説は、アリステア・マクリーン女王陛下のユリシーズ号だが、結局感想文を書いていない。他にも、ずっと読みたいと思っていた島尾敏雄『死の棘』とその妻の評伝である『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子著)を併せて読んで、人間の業の深さに呆然としたのだけれども、そのことも自分の言葉にできないでいる。
 継続は力なりというが、残念ながら文章力は上がらないし、言いたいことも上手く書けずに、例えばこの文章を書くにも、四苦八苦している。

 5年で書いた記事は300本ほどである。俗にいう「ブロガー」という人たちは、半年も経たずに書いてしまうだろう量である。PV数も大したことはないし、収益化なんて夢のまた夢であり、未だに無料サービスを使い続けている。
 こんなブログでも、5年も続ければ蓄積されてきたものがある。
 過去の私が書いてきた記事である。
 自分の過去記事を読み返すのは面白い。過去に読んできた本、思っていたこと、懐かしい日々。未熟な文章に、未熟な思考である。消してしまいたいと思うような記事もある。しかし、確かに過去記事には、ダメ人間なりに頑張って生きてきた過去の自分が、そして、そんな自分を人生の折々で救ってきた本たちがいる。私のブログの一番の読者は私であるし、これからもそうだろう。

 
 「この本、面白いよ」という気持ちを誰かに伝えたい。
 私にとっての読書は、単なる現実逃避じゃないか。活字中毒とは、ただの活字依存なのではないか、などと自省しないこともないのだけれど、読書という現実逃避に救われてきたことも確かである。もちろん世の中には、面白い小説だけではなく、恐ろしい過去の歴史を書き記した本、淡々とした専門書、嘘八百としか思えないスピリチュアル本、様々な本がある。いろいろな本があり、いろいろな読書がある。快楽よりも苦痛と言い表したくなるような読書もあるだろう。眠くなるだけの読書もあるだろう。しかし、それでもやはり、読書は面白い。本の中には今の私がまだ知らない世界が広がっている。読書の面白さというのは、自分の世界が広がる面白さである。私はまだまだ自分の知らない世界を、知らない景色を見たいと思う。


 そしてこんな未熟なブログを読んでくださっている読者の方がいる。記事につけて頂いた小さなスターにどれほど勇気づけられたか。
 これからも私は本を読み、「この本、面白いよ」というブログ記事を書いていきたいと思っている。これからもどうぞよろしくお願いいたします。


↓こちら、はじめましての記事。
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