読書録 地方生活の日々と読書

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海洋冒険小説『引き潮』ロバート・ルイス・スティーブンスン、ロイド・オズボーン【読書感想】

 『宝島』の著者ロバート・ルイス・スティーブンスンと彼の義息であるロイド・オズボーンによって書かれた海洋冒険小説『引き潮』を読みました。『宝島』のような子供向けの物語かなとも思いながら本を開いたところ、これが深みのある大人向けの物語だった。迫り来る危機を勇気と知恵を持って解決するという物語ではなく、登場人物たちの心理と、状況によって変わりゆく微妙な人間関係に重点を置いた作品である。

 南太平洋のタヒチの浜辺から物語は始まる。主な登場人物は、浜辺にある刑務所の跡地でその日暮らしをしている三人の白人たち。主人公のヘリックは裕福な家に生まれ大学も出ているが、いわゆる豆腐メンタルの持ち主であり、自意識過剰な癖に仕事はできず職を転々とするうちに、家族を捨て南太平洋まで流れ着いてしまったような男である。人情に厚いがアルコール依存症一歩手前のデイヴィスは、もともと船長だったが、酒に溺れて船を沈没させかけ船員を死なせた過去を持つ。ロンドンの下町生まれのヒュイッシュは、ゲスなクズ野郎であるが、度胸がある。

 南太平洋風に表現すれば、彼らはおちぶれている(オン・ザ・ビーチ)。不運という共通項が三人を結びつけ、タヒチでもっともみじめな英語圏の三人組が誕生したのである。もっとも、不幸な境遇に甘んじていること以外、相手についてはなにも知らないも同然だった。本名さえ名乗り合ったことがなかった。三人とも年季奉公のような辛抱強さでじりじりと身を落としていき、その堕落の途中で不真面目にも偽名を使わざるを得なかったからである。

 そしてとうとう食い詰め、精神的な限界が差し迫ったある日のこと。三人の前にあるチャンスがやってくる。とある商船で疫病が発生し欠員が出たため、乗組員を探しているというのだ。島の他の人間は疫病を恐れ乗りたがらないが、三人にとってはまたとない機会であった。こうして彼らはスクーナー、ファラローン号に乗って、海に出る。さらに彼らは、この航海を利用し一攫千金を狙うべく、とある計画を画策する。

 個性豊かであると同時に、人間らしい弱さを持った三人組の航海譚だ。深い内面の描写は、さすがジーキル博士とハイド氏』の著者である。航海は順調とはいえず、三人の力関係は常にある種の緊張感をはらんでいる。
 特にヘリックの人物描写がすばらしく、次のような一文を読むと、うん、きっと現代日本にもこういう人いるわ、と思う。父親の会社が倒産し、芸術の道を諦め、働かないといけなくなった際のこと。

けれどもロバート・ヘリックは、臆病の裏返しともいえるが、用心深くて分別があったので、家族を無理なく支えるのに最適な生き方を自らの意志で選んだ。しかし一方で、心は千々に乱れ、葛藤にさいなまれた。近所に住む以前の知人たちを避けたいがために、せっかくの有利な就職口をことごとく断り、ニューヨークに渡って一介の事務員になったのだった。

 ヘリックの様子を読んでいると、一時期ネット上で流行った「真面目系クズ」という言葉を思い出した。そんな彼が、板子一枚下は地獄である大海海へ出帆し、どうなって行くのか。

 『引き潮』は250ページほどの物語である。しかし220ページくらいまで読んでも先が見通せず、ちゃんと終結するのか心配になった。もちろん心配は無用だった。結末を読み、こうなるのかと驚くと同時に、この物語の真髄は最後20ページにあると思った。最後まで読み終わると、また冒頭から読み返したくなる物語である。ダメな大人たちの冒険小説、面白かった。

 著者スティーブンスンとロイド・オズボーンは、合作で『難破船』という海洋小説も書いているらしい。調べるとハヤカワ・ポケット・ミステリから出ている。ミステリ、なのか。こちらも大人向けの物語だそう。しかし、残念ながら絶版。中古で探してみようと思う。
 またこの本を読んでいると、同じく太平洋を舞台にしたモーム『雨』や、人間の内面を暴く冒険小説であるコンラッド『闇の奥』を読み返したくなってきた。これらの小説が好きな人には特に『引き潮』はおすすめしたい。

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引き潮

引き潮

転職とノート

  結局、転職をすることになった(1年ぶり2回め)。

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 無事、新たな就職先も決まり、3月から通うこととなる。
 いずれ機会があれば転職活動のことも書こうかと思うが、地方でも少子高齢化による労働者不足の影響が顕在化しているためか、今回の転職活動はそこまで苦労せずに済んだ。とりあえず一安心。
 今の仕事ーー学生時代に学んだことがダイレクトに活かせ、社会的貢献度も高い(と思われる)、全国的にみても結構珍しい仕事ーーに未練がないかといえば、実はものすごくあるのだけれど、転職することを決断したことは自分自身である。無いものねだりはやめよう。

 転職するにあたって欲しくなるのが、新しい文房具類である。支給品や社内品があるのかもしれないが、ノートや手帳の類は入社前に買っておいても損はないだろう。久々のノート選びだ。新しい仕事に思いを馳せながら、インターネットを覗く。未知の世界と白紙のノートを前に気分は高まる。

 今の仕事では、ロイヒトトゥルム1917のB5サイズの手帳の後方についているノートページを使用している。手帳は月間ブロック形式で、その後ろに88ページ程もの横罫のノートが付いているのだ。表紙はソフトカバーで、裏表紙の内側にはお馴染みのポケットもついている。表紙が止められるゴムと栞紐もついており、けっこう気に入っている。

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(↑この間違えた手帳が、使ってみるととても便利でした)

 新しいノートの選定にあたりはじめに探したのが、ロイヒトトゥルム1917のこの手帳からスケジュール機能をなくしてノートにしたものだ。ロイヒトトゥルム1917は大好きなノートブランドであるし。しかし探してみたが、私の探査能力では見つけることができなかった。

 次いで探したのが、別メーカーで同様のノートがないかということである。モレスキンのエキストララージのルールド、ソフトカバーが一番近い。まさしくこれだ、といってもいい。ついついそのままの勢いで購入してしまいそうになったところで、ふと我に帰った。値段である。3000円。社会人が趣味に費やす値段とすれば、決して高い値段ではない。しかしノート、しかも仕事で使うノートに3000円は決して安くはない。
 他のメーカーで安いものがないかどうか見てみたが、見当たらなかった。 

 次 に思いついたのが、大学ノートにノートカバーをつけてみたら良いのではないかということである。
 ノートカバー。以前A5サイズのノートカバーを買ったことがあったのだが、素材の質感がどうしても気に入ることが出来ず、使わなくなってしまったことがあった。けれどもノートカバーを使用することで、安いノートの欠点である使い込むうちに表紙の端の方が摩耗してしまうという点が解決できる。この利点は大きい。使い込まれた大学ノートの感じもそれはそれで好きなのだが。
 ノートカバーを調べてみた。素材も機能も様々で、値段もピンキリであった。色々気になる製品はあった。しかし今回は、シンプルなものが良いだろう。

 転職前におけるノート選びで難しいのは、実際に働いてみたときに、どのくらいノートを取ることになるのか分からないことだろう。もちろん転職なので、配属部署も大まかな仕事内容も事前に分かるが、実務的なところは結局のところ働いてみなければ分からない。今まで生きてきたうちでの観察によれば、私は人よりアナログなメモやノートをとることが多いが(ワーキングメモリが貧弱なのです)、それでも新しい職場ではほとんどノートを取らない可能性もある。だからこそ、とりあえずはオーソドックスなものを用意しておくことが無難であろう。一冊めのノートを使い切る頃には、多少は仕事の流れが掴めるだろう。より働き方にあったノートを選ぶのはそれからでよい。

 インターネットで商品の写真を眺めていても、時間がある過ぎるばかりでどうするべきか決められなかったので、近所の文房具店へ足を運んだ。大阪や神戸まで足を運び文房具店を巡る旅をしたい気もしたが、そこは我慢。
 ノートカバーコーナーを見てみた。そこは棚のほんの一角に過ぎなかった。しかしそれでも複数のメーカーのノートカバーがある。いくつかを手にとってみた。意外としっくりときた。
 ノートカバーたちの中から、安価でシンプルなひとつを購入することにした。ロルバーン ノートカバーのブラック。値段は650円。ほんとうにシンプルであり、余分な装飾が一切ないところが気に入った。ノートカバーの手触りも高級感はないが、違和感もない。普段使いとして使い続けられそうな感じである。
合わせるノートは無難にツバメノートにしました。30枚の横罫のもの。個人的には厚いノートが好きだが、ここでも最初だからということで自重。久しぶりの標準サイズの厚みのノートは随分薄く見える。
ノートカバーをノートにつける。ノートカバーのノートを入れるポケットが深いので、しっかりと固定される。ノートカバーはもう少し厚みのあるノートにも対応してくれそうな余裕があった。ノート2冊使いもできそうだ。いずれは表紙が派手で敬遠していたライフのノーブルノートなども合わせてみたいと思う。

新しい仕事、新しい職場、そして、新しい同僚。考えると緊張する。しかしこれだけは、どうしようもない。覚悟を決めて飛び込むしかない。そんなとき、お気に入りの文房具はそっと私を支えてくれることだろう。新しいノートを使うことを楽しみに、転職初日を待ちたいと思う。

不幸になってしまえばいいのに。村上春樹著『国境の南、太陽の西』

 不幸になってしまえばいいのに、主人公たちに対し、そんな風に思いながら読んでいる自分に気づいて驚いた。

 久しぶりに村上春樹さんの小説を読んだ。中長編小説国境の南、太陽の西。実はタイトルだけを見て、紀行文かと思い込み衝動買いしたのであった。電子書籍では中身が見られないから…とは言い訳しつつも、自分でも何をやっているのだろうかと呆れた。とは言ってもせっかく買ったので、読んでみる。

 この物語は、いかにも村上春樹さんの小説に出てきそうな男が主人公である。世間的に成功し、妻も娘もいる38歳の「僕」が、小学生時代の同級生と再会し、精神的に惹かれ、一線を越えてしまおうとする物語である。筋だけあげれば別に珍しくもない不倫話だ。

 どこにでもありそうな筋書きの話を読みながら、私はどうしてここまで心を乱されたのか。自分で言うのもなんだか、普段は他人の不幸願うような人間ではい。確かに古典的な因果応報な筋の物語は好きである。しかし、この本を読んでいる時のように、主人公たちの不幸願う事はほとんどない。普段小説を読むときに、どのような気持ちで登場人物に寄り添っているかと問われると、すぐには答えが出ないのだけれども、比較的、客観的俯瞰的に登場人物たちと共に物語を経験している気がする。こいつひどい人間だなと思う事はあれど、だからといって、不幸になればいいのにとまでは思考が及ばないというか。
 しかもこの物語の主人公は決して悪人ではない。確かに浮気はしている。が、浮気をする主人公なんて物語の世界にはごまんと存在しているし、登場人物がほとんど全員が浮気をしている小説『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ著)を読んでも、主人公トマーシュに対して、嫌な感情は抱かない。『存在の耐えられない軽さ』の中で1番好きな登場人物も、トマーシュの妻テレザではなくて、愛人サビナだったりするし。つまり私は、本作の主人公に対して倫理的に憤ったと言うわけではない。浮気する人間は不幸になればいい、という単純な心の乱され方ではなかったのだ。

 では私は何にそんなに引っかかったのだろうか。
 嫉妬かなとも思った。恵まれた環境にいてもなお、孤独と嘯く主人公に対する嫉妬。経済の成長期に、恵まれた家に生まれた主人公。特に、神戸の住宅地に庭付き一軒家の社宅が与えられている勝ち組サラリーマンの一人息子に生まれながらにして、自分を中流である言ってしまうところ引っかかった。私の認識がおかしいのかもしれないし、もちろん時代が違うと言われればそうなのだけれども。翻って自分を見る。田舎町に住んでいるけど、庭付きの家なんて、さらに郊外に出ないと買えそうにない……平成末期の現代社会、辛い。
 でも、経済的に恵まれた登場人物だって、本の中にはたくさん登場する。他の金持ちな登場人物に嫉妬したことがあっただろうか。ない。そう、私は彼の経済的な環境自体に対し、嫉妬を覚えているわけではないのだ。彼自身の恵まれた環境は、確かに彼の努力によって手に入れたものでもある。そもそも論として、私は登場人物に嫉妬するほど純粋な人間ではなかったはずだ。

 改めて考えてみる。そして気がつく。主人公たちに覚える反感は、家計のことを何も考えず「ガレージと薪ストーブ付きの家がほしい」といっている夫に覚える反感と非常に似ていることに。
 ああ、そうか。私は主人公たちがあまりにも「生活」というものを軽視しているように感じ、そのことに対して憤りを覚えているのだ。「不幸になればいいのに」という言葉も、別に彼らに死んでほしいわけではなくて、翻訳すれば、現実的な重さを持つ生活に直面して困惑すればいいのにということである。
 つまり私は結婚生活を実利的なものであるとみなしており、主人公たちが重視する魂のつながり的なものには重点を置いていないのだ。だからこそ、すべてを、生きることさえも捨てて一緒になろうとした主人公たちに対して、「生きていくということを舐めるな」と言いたくなったのだと思う。

 きっと私のような感想をこの小説に対して思う人は少ないだろう。そもそもが誤読している可能性もある。生活を重視していない登場人物こそ物語の世界にはいくらでもいるだろう、お前の好きなミステリに生活があるか、という指摘も尤もである。しかし確かに私はこの小説を読みながら、感情を大いに乱されていたわけであるし、一読者の心をこれだけざわつかせることができる村上春樹という作家は本当にすごいと思う。以前に別の村上さんの小説、例えばスプートニクの恋人を読んだ時は、今回のような反感は覚えなかったはずだ。ただしそれは、読んだ私がまだ学生だったからかもしれない。ぜひ再読し、今の私がどういう感情を持つのか試してみたい。それに今回読んだ『国境の南、太陽の西』も、別のとき--例えば私が主人公と同じ38歳のときによんだら、まったく違った感想を持つかもしれない。いずれまた、読んでみたい物語である。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)