読書録 地方生活の日々と読書

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『CATS』トム・フーパー監督【映画感想】

 映画『CATS』を観てきた。

 高校生のときに『CATS』というミュージカルがあること、都会には『CATS』専用の円形劇場まであることを知ってから、観てみたいものだと思っていた。しかし観劇する機会はなく、いつか観たい観たいと思いながらも10年以上が経ってしまった。そんなときに『CATS』の映画化の話を知った。監督はレ・ミゼラブルトム・フーパー氏。私は映画『レ・ミゼラブル』が大好きで、映画館で3回観て、DVDも買って、サントラも通常版とデラックス版両方を購入した。自分の中の『CATS』への期待は否が応でも高まっていた。公開日が近づくにつれ、どうやら海外での評判が悪いらしいとの噂を知った。私はフィクションはネタバレされずに楽しみたいと思っているので、出来るだけ噂の詳細は聞かない・読まないようにしていた。予告編を観て、猫たちのビジュアルを知り、これが原因かと思った。私は猫たちにそこまで違和感を覚えなかった。それでも噂のことはどこか気になり、高まっていたテンションは少し冷めた状態で、映画館に足を運んだ。
 先の日曜日、映画館へ行ってきた。地元の映画館の一番大きなスクリーンで上映されていたが、客席は3分の2ほどしか埋まっていなかった。女性のお客さんが多く、年齢層は高めだった。

『CATS』感想。

 1時間50分の上映時間はあっという間だった。

 観ながら感じていたのは、実は「戸惑い」だった。面白いのか面白くないのか判断が出来ない。この映像体験は何なのか。私は何を観ているのか。私の中の半分は、役者さんたちの肉体美や音楽に圧倒され、もう半分はそれらをどのように受け取ったらいいものか戸惑っていた。
 このミュージカル映画は異質だ。そう感じた。
 私が観てきたミュージカル映画の大半は、単純明快なものだった。『マンマ・ミーア』「親子で結婚してハッピー」だし、ハイスクール・ミュージカル「柄ではないけど演劇って楽しい」だし、オペラ座の怪人「ゴシック的な雰囲気でラブストーリー」だし、レ・ミゼラブル「人生山あり谷あり革命あり」である。時系列に沿ったストーリーがあり、登場人物たちの悩みや葛藤、そしてその克服が分かりやすく提示される。
 しかしこの『CATS』は、ストーリーがあるようでなく、また登場人物たちの背景の説明がなく、暗喩に満ちている。大まかなストーリーとしては、年に一度、猫たちの中から「生まれ変わることができる猫」を選ぶ、というものだが、この「生まれ変わる」という言葉が何を示しているのか分かりにくいし(物語のラストに暗示される)、それぞれの猫たちが「何故生まれ変わりたいのか」という理由がいまいちよく分からなかった。この説明(理屈)のなさ、というのが『CATS』という物語の特徴なのだと思うが、一般的な映画文法に従った映画を見るつもりだった私は、この映画の仕様に大いに戸惑った。
 そんな戸惑いのなか思い浮かんできたのは、シルク・ドゥ・ソレイユの舞台である。説明のなさ、それでいて、音楽と人とが一体となって作り上げる舞台に圧倒されつつも魅了される感じが、シルク・ドゥ・ソレイユの舞台を観ているときの感じを思い出させた。これはもう、素直に映画に圧倒されて、その状態を楽しめばよいのだな、と思った。

なぜ猫たちは服を着なかったのか

 ところで映画を観ながらもう一つ思ったことがある。「どうして猫たちは服をきていなかったのだろうか」ということである。
 映画の猫たちのほとんどは裸(毛皮)だ。服っぽい毛並みの猫もいるのだけれども、そうでない猫も多い。しかし一部の猫たちは服を着ている。私は他の猫もみんな服を着たら良かったのにと思った。この映画の売りである、肉体や動きの美しさについては服を着ない方が強調されるので、そのために裸にしたのだろうと思う。それでも私は、もしこの猫たちが服を着ていたら、どんな服を着ることになったのかと考えてしまった。
 この映画を見て、私は逆説的に映画や演劇におけるヘア・メイクの重要性について、気付かされた気がした。猫たちがもっと個性的でごたごたした(それこそ『レ・ミゼラブル』の登場人物たちみたいな)衣装を着てくれていたら、だいぶ印象が変わるのではないかなと思った。個性や背景も分かりやすくなるだろうし、私はこの映画の舞台の風景や雰囲気が好きなので、風景にあう雰囲気にあう衣装を観たかったなと思った。
 賛否あるヴィジュアルに対する評価も服の有無で変わったのではないだろうかとも思う。

 ただ、やはり役者の動きという面では、服を着ていなくてよかったのかなと思う。私は舞踊のことはまったく分からないのだが、この映画の猫たちのダンスは素晴らしかったと思う。この映画では、尻尾による表現ができるので、猫たちは人間よりも表現の幅が広い。その幅をいっぱいに生かしたダンスだった。そしてそのような尻尾のある姿が映えるのは、やはり裸の毛並みなのだと思う。
また服を着た猫と着ていない猫を用意することで、その事自体がそれぞれの個性を表しているという見方もできる。捨て猫で、何者でもなかった本映画の主人公ヴィクトリアが裸なのが象徴的だ。

このように書き連ねて思うのが、やはりこの映画は面白い映画だということだ。なんだか自分の書いた感想を確かめるために、もう一度この映画を観たくなってきた。
そして観るにはやはり映画館で観るべきだろう。華麗に動き回る猫たちのショーを楽しめるのはやはり映画館の大舞台だ。

キャッツ (ちくま文庫)

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いつか原作も読んでみたい。

『パラサイト 半地下の家族』【映画感想】

 2020年初の映画館は『パラサイト 半地下の家族』でした。
 
 はじめて題名を聞いた時はホラー映画かと思ったのだが、そうではなかった。韓国の格差社会をユーモラスに描いた怪作だ。ホラーではないが、恐怖と暴力は生々しく描かれており、ある意味、下手なホラー映画より怖いかもしれない。

 『パラサイト 半地下の家族』という邦題そのまま、「半地下」に住む貧しいキム一家(成人4人で宅配ピザの箱を組み立てる内職をしている)の息子ギウが、豪邸に住むパク一家の娘の家庭教師の仕事得たことをきっかけに、家族全員が金持ち一家に寄生していくという物語だ。

 この映画を見て印象深かったのは、半地下という設定だ。半地下とは何かと思ったが、言葉そのまま、半分が地下となっている住宅のことだった。映画の中の一家が住む半地下は、リビングの壁の上部に窓があり、そこから地上を見上げることができるようになっている。家を外側から見ると、窓は地面すれすれに開いていることが分かる。登場人物が半地下から地上を見つめるシーンには、どこか哀愁があり、なんとも言えない気持ちになった。
 この映画では半地下の家というのが、貧困の象徴として描かれている。そして「半地下」という言葉は「地上」と「地下」の存在があってのものであり、この映画にも「地上の家」と「地下の部屋」が出てきて、それぞれ「半地下」より上もしくは下の暮らしがあることを暗示している。
実際に、地震の少ない韓国にはこのような半地下の構造の家があるらしい。もともとは防空壕に使えるようにとの意図で設計されたものだが、高度成長期以降は都市部の安価な賃貸住宅として機能しているそうだ。半地下という構造上結露やカビ等の問題が起きやすく、貧乏なひとが住む家というイメージがあるという。半地下に住んでいたという方のブログをいくつか読んだが、風通しが悪い、虫が多いというデメリットがあるとのこと。映画でも「半地下」の暮らしにくさや貧乏人扱いなことは表現されており、トイレの便器が天井高くに設置されていたり、一家の部屋に半分地上にある窓から消毒薬が噴射されるといった描写がある。

 ではこの作品は貧富の差を描いた社会派映画か、 といえば、そうではあるのだが、それだけでもないのが、この映画の凄いところである。現代の格差社会を書ききっているにも関わらず、しっかりとエンタメとして成立しているのだ。
 キム一家が謀略を巡らせ、IT企業の社長であるパク一家に寄生していくところは、サスペンス映画のようであるし、馬鹿馬鹿しいドタバタ劇もある。そして意外な展開が次から次へと起こる。物語が動き続けるのだ。つまらないと思う暇がない。
 物語の展開は現実的ではない。劇的な瞬間の連続にも関わらず、それでもこの映画にはリアリティがある。それだけ格差というものが、私の身近になったということもあるだろうが、それ以上に人の描き方が上手いからだと思う。
 この映画の登場人物たちは、貧しいキム一家も金持ちなパク一家もとても普通なのだ。貧しいから頭が悪いということも、金持ちだから性格が悪いということもない。キム一家もパク一家も同じように、善良で愚かな人間だ。貧しさ故に軽犯罪に手を出したり、金があるが故に傲慢であったりもするが、それでも人並み外れて凶悪なわけではない。性格・能力が故に、貧乏あるいは金持ちだったりするわけではないのだ。だからこそ、この映画はリアリティを持って私に迫る。『パラサイト 半地下の家族』が明らかにしているのは、同じような人間にも関わらず、金の有無によって生活や人生が大きく違ってしまうという、現代社会が内包する、よくよく考えるとものすごく理不尽な現実なのである。
そして現代に生きる私たちは、この社会の中の格差からは逃れられないのだ。キム一家たちが決して逃れられないように。それでも、生きていくしかない。

ディストピア小説を読む 『われら』ザミャーチン(松下隆志訳)【読書感想】

 オーウェル1984年』に影響を与え、
 ハクスリー『すばらしい新世界』が影響を認めない
 ディストピアSFの先駆け、待望の新訳

 ザミャーチン著『われら』光文社古典新訳文庫の帯である。ザミャーチンという著者も、『われら』という題名も聞き覚えのないものだった。しかし本屋でこの本に出会い、帯の文句に惹かれ買ってしまった。私はディストピアSF小説が大好きである。

ディストピア小説の魅力とは何か

 ディストピアSF小説の魅力とは何か。それは社会と個人の関係の変化によって物語が進んでいくところである。
ディストピアSF小説では、今現在とは異なる体制の社会を舞台にしていることが多いため、必然的に「社会そのもの」についての描写が多くなる。そして描かれた社会にはそれぞれの著者によるオリジナリティが詰まっており、その設定を味わうだけでも面白い。例えば、この『われら』の社会では、すべての人間は〈単一国〉と呼ばれるその名の通り地球全土を支配しているシステムに組み込まれている。〈時間タブレット〉により起床就寝や食事時間、咀嚼回数まで管理されている管理社会だ。しかしその一方で、〈単一国〉社会には1日2回1時間ずつ〈個人時間〉が与えられてもいる。管理社会における奇妙な空白により、物語に可動性が与えられている。それから人間たちの住む都市は〈緑の壁〉で仕切られており、その先には大いなる自然が残されているし、太古の生活について展示している博物館には《アパート》の一室が展示されている。そしてこれらの設定は物語で大きな役割を果たしていく。
このような設定の妙を楽しむのが、ディストピアSFのひとつの醍醐味だろう。

 もちろん小説は設定だけでは進まない。ディストピアSF小説の一番好きなところは、オリジナリティ溢れる別世界で、私たちと同じ「人間」が右往左往するところである。もっとも「人間」といっても現代人とは必ずしもイコールではない。たとえば有名なディストピアSF小説すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー著)では、人間は工場で受精卵から選別され、製造されており、もはや種として現代人と同一視していいのか疑わしい。この『われら』の世界の人間にしても生殖は完全に管理下に置かれており、家族という概念も恋人という概念もない。人生観も私たちとは異なっている。
 それでも彼らは人間である。私たちは彼らに共感あるいは反発しながら物語を読み進める。彼らと私たちの社会の違い、彼らと私たちの違いを慎重に比較しながら。そして物語の進行によって変化していく、社会と個人の関係のダイナミクスを見守っていく。

『われら』を読む。

 物語の主人公は、D-503(Dはキリル文字)。異星人にコンタクトを取るための宇宙船〈インテグラル〉の造船技師で数学者だ。この物語は、異星人「われら」のことを知ってもらうために宇宙船に乗せる手記として綴られている。
 彼は〈単一国〉の信奉者であり、管理社会に対し何の疑問も持っていない。しかしある日、ウォーキング(〈単一国行進曲〉に合わせ、四人一列で、一糸乱れず行進すること)の最中に、奇妙な女I-330と出会い、彼女に誘惑されていく。しかし彼女には、うちに秘めた計画があって、主人公は否応なく巻き込まれていく。

 「管理社会VS個人」というディストピアSFとしてはよくある構図の物語ではあるのだが、しかしこの物語は一筋縄ではいかない。そこに恋愛要素が混ざってくるからだ。
 実は主人公にはI-303の他にセックスの相手として登録されたパートナーO-90がいる。主人公D-503は、O-90のことを「かわいいやつ」とは思っているが、その感情は所謂恋愛感情ではなく、その証拠に彼女のことは親友と共有しているのだ。しかし彼女はそのように割り切っている訳ではなかった。一方で、恋愛経験というものを経験せずに大人になった主人公だが、I-303に対しては強烈な独占欲を抱くようになっていく。
 「主人公-謎の女-恋人-親友」という関係性の中で物語は進んでいく。機械的な生活を送る、どこか機械的であった主人公もこの関係性の中で徐々に感情を露わにしていく。
 読んでいる途中で「あれ、この本もしかしてディストピアSF世界を背景にした恋愛小説?」思ったほど、男女の感情のやりとりはしっかりと書かれている。そしてその誰かを思う気持ち(とその暴走)が、物語を駆動させるエネルギーとなっているのだ。

 この恋愛感情によって大きく物語が左右されるディストピアSFというのは意外と珍しいのではないかと思う。後発の作家たちによるディストピアSFでは、もっと純粋に「管理社会と個人」に焦点を当てているものが多い。「個人と個人」の物語である恋愛は、後景に追いやられている。「個人と個人」にも重点を置いている本作は、テーマが散漫であるようにも思われるかもしれない。しかし社会の構成員が個人であり、実際の私たちが行動を左右しているのが身近な人である以上、恋愛感情をしっかりと書いた『われら』は、ある意味、現実世界の人間の在りように忠実になのかもしれない。

 簡潔な文体で、少し読みにくいところもあるが、ディストピアSF好きには是非読んでいただきたい一冊。確かに多くの作家に影響を与えたらしく、読みながら今まで読んできたSF小説が頭によぎっていった。

今まで読んできたディストピア小説たち

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われら (光文社古典新訳文庫)

われら (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ザミャーチン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/09/11
  • メディア: 文庫