読書録 地方生活の日々と読書

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森博嗣Wシリーズ5作目『私たちは生きているのか?』【読書感想】

 私たちは生きているのか?
 この問いに、特に悩まずにイエスと答えられる私は幸せである。思考と肉体はイコールであり、肉体の死はすなわち人格の死である。肉体の死の定義は確かに微妙な点はあるが、しかし、それでも分かりやすい世界に住んでいる。
 さて。もしもこれから科学技術が発展し、思考と肉体がイコールで結ばれなくなったとしたら。その時、私たちの生と死の在り方はどのように変化するのであろうか。そんな思考実験をエンタメ小説に昇華させたのが森博嗣のWシリーズであり、その中でも特に肉体と思考の関係に焦点を当てたのが、5作目の『私たちは生きているのか?』である。
 前作までに、自律型人工有機生命体であるウォーカロン、数十年単位で自己学習してきた人工知能、そして電脳世界で分散的に存在可能な知性体トランスファーという、人間以外の知性の在り方を提示してきたが、本作では「水槽の脳」の思考実験が実在化した理想郷が登場する。
 肉体を捨て、脳だけの存在となったウォーカロンたちが住む電脳世界の村。住民たちは文字通り頭脳労働にて外貨を稼ぐ一方、自らの思い通りに村を建設(プログラミング)し生活している。
 医療技術が高度に発達し、病でも怪我でも寿命でも、人(やウォーカロン)が死ななくなった世界で、それでもあえて肉体を捨てることを選んだ彼らは幸せなのであろうか。確かに効率的ではある。いや、そもそも「幸せか」という問いの立て方自体が不適切な気がする。
 彼らはそれでも生きているとは言えるのか。生きているとはどういうことか。私は本当に生きているのか。
 彼らのような知性の形に対し、社会はどのような態度を示すべきなのか。

 女王シリーズに引き続き、Wシリーズを読み返している。読み返していて思うのが、やはりWシリーズは面白いなということである。森博嗣さんのすべてのシリーズを読んでいるわけではないので、言い切ることはできないが、少なくとも私が読んできたシリーズの中では女王シリーズ〜Wシリーズが一番好きだ。
 本巻は、シリーズの中でもSF色が強い一方で、プログラムでしかないはずのトランスファーのデボラが主人公ハギリ博士の「友人」として活躍し始めるし、無口なアネバネも会話に参加しているし、ウグイさんとの距離間もいい感じであるし、と、エンタメとしても抜群に面白い。好きなWシリーズの中でも特に好きな一冊なので、2年前にも感想を書いていた。
 続きの再読も非常に楽しみである。

北森鴻の異色長編ミステリ『冥府神の産声』【読書感想】

 北森鴻さんの長編ミステリ『冥府神の産声』を読みました。

 初読は小学六年生か中学一年生のときだった。「冥府神」と書いて「アヌビス」と読むのがカッコいいという、中二病的感性から手に取った一冊。初めて読んだときは、難しい話だなと思った。挫折したと思う。その後「北森鴻」という作家を意識してからもう一度手に取り完読。成人してからも一度読んだことがあるので、この度の読書は再々々読となる、はず。北森鴻の長編では、一番多く読み返した一冊である。
 ではこの長編が著者北森鴻さんの代表作かといえば、そうではない。むしろ『冥府神の産声』は北森鴻さんの作品の中の異色作といっても良い。
 本書には料理も骨董品も民俗学も出てこない。テーマは脳死と臓器移植。そう、医療ミステリなのだ。しかも超能力が使える少女というSF風味な登場人物まで出てくる。舞台も新宿の段ボール村であり、社会派ミステリとしての色も濃い。
 北森鴻さんの作品の中ではかなり特殊な部類に入り、読後感もSFを読んだときに近い。
物語の根幹をなしているifがSF的であるし(物語はこのifを巡るホワイダニットでもある)、超能力をもつ少女トウトについての謎(彼女は何者か、過去に何があったのか、これからどうするのか?)が一切明かされないまま物語が終わり、不思議な余韻となっているからだろうと思う。
 また、物語中に挿入される解剖学教室で夜間に行われる秘密の実験など、怪奇小説のようなシーンもある。

『冥府神(アヌビス)の産声』を読む。


 時代は平成。脳死者の臓器移植の是非について医学会が揺れていた。ある夜、一人の男が殺された。被害者は医学部の解剖学教室の教授であり、脳死者の臓器移植推進派の主要メンバーであった。殺人の謎に挑むのは、医療ライターの相馬。相馬は被害者の教授の右腕とまで言われた優秀な研究者だったが、臓器移植の方針について教授と揉めて教室を追放された過去を持っていた。久しぶりに教室を訪ねた相馬は、自らと同じく教授の教え子で、ライバルでもあった九条という男もまた、研究室を追われていたことを知る。相馬は事件を追う過程で九条と再会するのだが、彼の姿は様変わりしていた。

「俺たちは、あの研究室でなにをやろうとしていたのだろうか」
 祈りの言葉はあまりに淡々としすぎていて、相馬は返す言葉を見つけることができなかった。
「汝の肉を我は汝に与え、汝の骨を我は汝のために結びあわせたり。汝の四肢を我は汝のために集めたり。土地は甘んじて汝を受け入れ、汝の四肢は守られたり。汝は安全な状態にある力強きものにして、汝は秩序正しくおかれ、汝は神々を見る。汝は旅に出発し、その手はすでに地平に達して、汝がいたらんとする聖なる場所に近付きぬ。
 歓呼の声は汝に向けられ、汝が祭壇に現われるとき歓びは汝に向かって発せられる。太陽神ホルスはその昇るときに汝を蘇らせることも、あたかも聖なる場所におけるごときなり。栄えあれ、勝利者たるオシリス・ネフェル・ウベン・フよ。ウアの女神は汝に生命を与え、墓に棲むアヌビスは汝のミイラを調え、汝の身体に包帯を巻けり」
 いったい何度この言葉を九条は唱えつづけたのか。本をめくることもなく、呪文のように、たぶん死者の書の一節であろう言葉を続けた。

 こんな異色づくめ小説にも関わらず、私はこの物語が好きだ。まず雰囲気が抜群に良い。平成前期の空気ーー「昭和」のおどろおどろしさや熱気もないし、「令和」ほど洗練されてもいない(主観です)ーーを濃縮させたような雰囲気が全編に漂っている。また登場人物に愚かな人間いないというのも魅力的だし、生と死を問うテーマも考えさせられる。
 何よりも資料からこれだけの物語を組み立てた著者の筆力に脱帽する。残念な点をひとつ挙げるとすると、『冥府神の産声』的な物語が本書一冊だけであることだろうか。もっとこのような、物語を読みたかったなと思う。


冥府神(アヌビス)の産声 (光文社文庫)

冥府神(アヌビス)の産声 (光文社文庫)

  • 作者:北森 鴻
  • 発売日: 2008/11/11
  • メディア: 文庫

『迷宮百年の睡魔』(森博嗣著)【読書感想】

今週のお題「読書感想文」

 森博嗣さんの長編SFミステリ、女王シリーズの二作目迷宮百年の睡魔を再読しました。
 これがなんとも捉えがたい一冊で、うまく感想文が書けそうにない。

 前作と同じく人間のミチルと初期型ウォーカロン(ロボット)のロイディのバディが主人公。ジャーナリストのミチルは、長年外部からの取材を断っている自主独立の島イル・サン・ジャックを訪ねる。その島の王宮モン・ロゼで出会った女王メグツシュカは前作女王の百年密室で出会ったルナティック・シティの女王デボウの母親であるという。そして起こる殺人事件。ミチルとロイディは否応なく事件に巻き込まれていく。

 四季シリーズWシリーズを繋ぐミッシングリングのような一冊。Wシリーズは単体でも読めるが、いわば本書のネタバレ、いや答え合わせともいえるような物語となっている。特にWシリーズ8作目『血か、死か、無か』にはメグツシュカ、ミチル、アキラ、ロイディといった名前が、過去の事件の人間としてだが、しっかりと出てくる。また『女王の百年密室』と『女王百年の睡魔』との繋がりも別視点から見ることができる。そもそもメグツシュカが何者か、主人公のミチルが何者であるのかといったことも明かされるので、本書『女王百年の睡魔』を読み、彼らの関係が気になった方は是非Wシリーズを読んでみてほしい。私も読み返したくなってきた。
 女王シリーズの3作目『赤目姫の潮解』との繋がりももちろんある。『赤目姫の潮解』で個人的に最も印象的であった砂のマンダラのシーンがこの物語では、殺人事件の現場を彩っていた。他にも一夜にして森が海になり、海が砂浜になるといった幻想的ともいえる風景は、『赤目姫の潮解』の非現実的な風景を彷彿させる。

迷宮百年の睡魔』を読む。

 『迷宮百年の睡魔』はもちろん単体の物語としても読み応えがある。前作『女王の百年密室』に比べるとSF色が強く、ミステリ色が薄い。抽象度が上がっている。前作にはあった宮廷の見取り図も本作にはない(本作の舞台は「迷宮」でもあるし)。
 前作のテーマが「生きているとはどういうことか」ということであるとすれば、本作のテーマは「人間であるとはどういうことか」ということである。いわゆる「水槽の脳」の思考実験を、ウォーカロンやクローンといったアイテムを交えつつ描き出したのがこの物語である。
 人間の本質とは何か。
 頭脳か、それとも肉体か。あるいは両方がそろっている必要があるのか。
 オリジナルである必要はあるのか。オリジナルな人間とクローンの人間に違いはあるのか。
 自然に生まれたことが必要なのか。人工的に生まれることは不自然なことか。自然と人工の違いはどこにあるのか。
 百年後の未来を舞台にしたSF的世界は、「人間とは何か」という一見明確な問いのグレーな部分を明確にして私たちに迫る。
 人間によって作られたウォーカロンと同じく人間によって作られたクローン。しかし、いわゆる「普通の人間」である私たちも、人間によって作られ、人間による学習を受けて人格が形成されたことにかわりはない。
 個々人の人格を規定するのは、感情だろうか、あるいは思考だろうか。肉体がなければ感情が生じることはないのだろうか。肉体があればウォーカロンも感情を覚えるのだろうか。人間らしさは学習に過ぎないのだろうか。それとも生来的な何かがあるのか。 

「よろしい」彼女は手を伸ばし、僕の手を取った。「良いですか? 私があなたに言えることは、ただ一つ」メグツシュカは僕に顔を近づける。「人間としての誇りをもちなさい、ミチル」

 
 「人間であるとはどういうことか」を問うことは、「生きているとはどういうことか」を問うことにも繋がっている。
 一つ浮かんできたのは「変化」という言葉だった。不変であるということは、死んでいることと同じことだ。生きている限り、人間は否応なく変化していく。
 だから、ミチルとロイディの関係は前作とは変化しているし、またこれからも変化するであろう。彼らがイル・サン・ジャックを訪れたことで、平穏で変化の乏しい島では事件が起こり、島民は自ら考えることを始めた。そして事件の結末を見届けた彼らは島を去り、私たちが知らない世界へと旅を続ける。
 人間であるということは、常に変化し、変化を感じ、そのことを考え続けることなのではないか。
 そんなことをぐるぐると考えた読書体験であった。


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