読書録 地方生活の日々と読書

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『パラサイト 半地下の家族』【映画感想】

 2020年初の映画館は『パラサイト 半地下の家族』でした。
 
 はじめて題名を聞いた時はホラー映画かと思ったのだが、そうではなかった。韓国の格差社会をユーモラスに描いた怪作だ。ホラーではないが、恐怖と暴力は生々しく描かれており、ある意味、下手なホラー映画より怖いかもしれない。

 『パラサイト 半地下の家族』という邦題そのまま、「半地下」に住む貧しいキム一家(成人4人で宅配ピザの箱を組み立てる内職をしている)の息子ギウが、豪邸に住むパク一家の娘の家庭教師の仕事得たことをきっかけに、家族全員が金持ち一家に寄生していくという物語だ。

 この映画を見て印象深かったのは、半地下という設定だ。半地下とは何かと思ったが、言葉そのまま、半分が地下となっている住宅のことだった。映画の中の一家が住む半地下は、リビングの壁の上部に窓があり、そこから地上を見上げることができるようになっている。家を外側から見ると、窓は地面すれすれに開いていることが分かる。登場人物が半地下から地上を見つめるシーンには、どこか哀愁があり、なんとも言えない気持ちになった。
 この映画では半地下の家というのが、貧困の象徴として描かれている。そして「半地下」という言葉は「地上」と「地下」の存在があってのものであり、この映画にも「地上の家」と「地下の部屋」が出てきて、それぞれ「半地下」より上もしくは下の暮らしがあることを暗示している。
実際に、地震の少ない韓国にはこのような半地下の構造の家があるらしい。もともとは防空壕に使えるようにとの意図で設計されたものだが、高度成長期以降は都市部の安価な賃貸住宅として機能しているそうだ。半地下という構造上結露やカビ等の問題が起きやすく、貧乏なひとが住む家というイメージがあるという。半地下に住んでいたという方のブログをいくつか読んだが、風通しが悪い、虫が多いというデメリットがあるとのこと。映画でも「半地下」の暮らしにくさや貧乏人扱いなことは表現されており、トイレの便器が天井高くに設置されていたり、一家の部屋に半分地上にある窓から消毒薬が噴射されるといった描写がある。

 ではこの作品は貧富の差を描いた社会派映画か、 といえば、そうではあるのだが、それだけでもないのが、この映画の凄いところである。現代の格差社会を書ききっているにも関わらず、しっかりとエンタメとして成立しているのだ。
 キム一家が謀略を巡らせ、IT企業の社長であるパク一家に寄生していくところは、サスペンス映画のようであるし、馬鹿馬鹿しいドタバタ劇もある。そして意外な展開が次から次へと起こる。物語が動き続けるのだ。つまらないと思う暇がない。
 物語の展開は現実的ではない。劇的な瞬間の連続にも関わらず、それでもこの映画にはリアリティがある。それだけ格差というものが、私の身近になったということもあるだろうが、それ以上に人の描き方が上手いからだと思う。
 この映画の登場人物たちは、貧しいキム一家も金持ちなパク一家もとても普通なのだ。貧しいから頭が悪いということも、金持ちだから性格が悪いということもない。キム一家もパク一家も同じように、善良で愚かな人間だ。貧しさ故に軽犯罪に手を出したり、金があるが故に傲慢であったりもするが、それでも人並み外れて凶悪なわけではない。性格・能力が故に、貧乏あるいは金持ちだったりするわけではないのだ。だからこそ、この映画はリアリティを持って私に迫る。『パラサイト 半地下の家族』が明らかにしているのは、同じような人間にも関わらず、金の有無によって生活や人生が大きく違ってしまうという、現代社会が内包する、よくよく考えるとものすごく理不尽な現実なのである。
そして現代に生きる私たちは、この社会の中の格差からは逃れられないのだ。キム一家たちが決して逃れられないように。それでも、生きていくしかない。

ディストピア小説を読む 『われら』ザミャーチン(松下隆志訳)【読書感想】

 オーウェル1984年』に影響を与え、
 ハクスリー『すばらしい新世界』が影響を認めない
 ディストピアSFの先駆け、待望の新訳

 ザミャーチン著『われら』光文社古典新訳文庫の帯である。ザミャーチンという著者も、『われら』という題名も聞き覚えのないものだった。しかし本屋でこの本に出会い、帯の文句に惹かれ買ってしまった。私はディストピアSF小説が大好きである。

ディストピア小説の魅力とは何か

 ディストピアSF小説の魅力とは何か。それは社会と個人の関係の変化によって物語が進んでいくところである。
ディストピアSF小説では、今現在とは異なる体制の社会を舞台にしていることが多いため、必然的に「社会そのもの」についての描写が多くなる。そして描かれた社会にはそれぞれの著者によるオリジナリティが詰まっており、その設定を味わうだけでも面白い。例えば、この『われら』の社会では、すべての人間は〈単一国〉と呼ばれるその名の通り地球全土を支配しているシステムに組み込まれている。〈時間タブレット〉により起床就寝や食事時間、咀嚼回数まで管理されている管理社会だ。しかしその一方で、〈単一国〉社会には1日2回1時間ずつ〈個人時間〉が与えられてもいる。管理社会における奇妙な空白により、物語に可動性が与えられている。それから人間たちの住む都市は〈緑の壁〉で仕切られており、その先には大いなる自然が残されているし、太古の生活について展示している博物館には《アパート》の一室が展示されている。そしてこれらの設定は物語で大きな役割を果たしていく。
このような設定の妙を楽しむのが、ディストピアSFのひとつの醍醐味だろう。

 もちろん小説は設定だけでは進まない。ディストピアSF小説の一番好きなところは、オリジナリティ溢れる別世界で、私たちと同じ「人間」が右往左往するところである。もっとも「人間」といっても現代人とは必ずしもイコールではない。たとえば有名なディストピアSF小説すばらしい新世界』(オルダス・ハクスリー著)では、人間は工場で受精卵から選別され、製造されており、もはや種として現代人と同一視していいのか疑わしい。この『われら』の世界の人間にしても生殖は完全に管理下に置かれており、家族という概念も恋人という概念もない。人生観も私たちとは異なっている。
 それでも彼らは人間である。私たちは彼らに共感あるいは反発しながら物語を読み進める。彼らと私たちの社会の違い、彼らと私たちの違いを慎重に比較しながら。そして物語の進行によって変化していく、社会と個人の関係のダイナミクスを見守っていく。

『われら』を読む。

 物語の主人公は、D-503(Dはキリル文字)。異星人にコンタクトを取るための宇宙船〈インテグラル〉の造船技師で数学者だ。この物語は、異星人「われら」のことを知ってもらうために宇宙船に乗せる手記として綴られている。
 彼は〈単一国〉の信奉者であり、管理社会に対し何の疑問も持っていない。しかしある日、ウォーキング(〈単一国行進曲〉に合わせ、四人一列で、一糸乱れず行進すること)の最中に、奇妙な女I-330と出会い、彼女に誘惑されていく。しかし彼女には、うちに秘めた計画があって、主人公は否応なく巻き込まれていく。

 「管理社会VS個人」というディストピアSFとしてはよくある構図の物語ではあるのだが、しかしこの物語は一筋縄ではいかない。そこに恋愛要素が混ざってくるからだ。
 実は主人公にはI-303の他にセックスの相手として登録されたパートナーO-90がいる。主人公D-503は、O-90のことを「かわいいやつ」とは思っているが、その感情は所謂恋愛感情ではなく、その証拠に彼女のことは親友と共有しているのだ。しかし彼女はそのように割り切っている訳ではなかった。一方で、恋愛経験というものを経験せずに大人になった主人公だが、I-303に対しては強烈な独占欲を抱くようになっていく。
 「主人公-謎の女-恋人-親友」という関係性の中で物語は進んでいく。機械的な生活を送る、どこか機械的であった主人公もこの関係性の中で徐々に感情を露わにしていく。
 読んでいる途中で「あれ、この本もしかしてディストピアSF世界を背景にした恋愛小説?」思ったほど、男女の感情のやりとりはしっかりと書かれている。そしてその誰かを思う気持ち(とその暴走)が、物語を駆動させるエネルギーとなっているのだ。

 この恋愛感情によって大きく物語が左右されるディストピアSFというのは意外と珍しいのではないかと思う。後発の作家たちによるディストピアSFでは、もっと純粋に「管理社会と個人」に焦点を当てているものが多い。「個人と個人」の物語である恋愛は、後景に追いやられている。「個人と個人」にも重点を置いている本作は、テーマが散漫であるようにも思われるかもしれない。しかし社会の構成員が個人であり、実際の私たちが行動を左右しているのが身近な人である以上、恋愛感情をしっかりと書いた『われら』は、ある意味、現実世界の人間の在りように忠実になのかもしれない。

 簡潔な文体で、少し読みにくいところもあるが、ディストピアSF好きには是非読んでいただきたい一冊。確かに多くの作家に影響を与えたらしく、読みながら今まで読んできたSF小説が頭によぎっていった。

今まで読んできたディストピア小説たち

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われら (光文社古典新訳文庫)

われら (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ザミャーチン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/09/11
  • メディア: 文庫

詩的な戦争映画。『ダンケルク』【映画感想】

 2017年の公開時に見過ごしてから、見たい見たいと思っていた映画をようやく鑑賞した。クリストファー・ノーランが監督・脚本・製作を手がけたダンケルクである。第二次世界大戦中の英仏軍のダンケルク撤退戦を題材にした戦争映画だ。戦争映画はあまり見たことがなかったのだが、「撤退戦」をメインにした映画ということで興味を持った。映画の予告編を見るまでダンケルク撤退戦のことはほとんど知らなかったのだけれど、それがきっかけとなってインターネットで軽く調べたことを覚えている。
 その後に読んだイアン・マキューアンによる『贖罪』という小説にこのダンケルク撤退戦が描かれてており、「やっぱり『ダンケルク』観ておかないとな」という気持ちになった。
 しかし、なかなか鑑賞するきっかけがなく、公開から2年以上が経ってしまった。このままではいつまでも観られないので、この正月休みのやることリストに「『ダンケルク』鑑賞と書き入れた。

ダンケルク』を観た。

 引き込まれる映画だった。観終わったあとも強い印象が残っている。

 変わった映画である。戦争映画にも関わらず、そこには主人公がいない。ヒーローも敵もいない。ストーリー的な面白さはないが、しかし、とても面白い。
 フィクション的でもノンフィクション的でもない映画だ。体験としては、詩を読んだ時に近い。戦場の生きるか死ぬかの瀬戸際を描いているのに、鑑賞後は、石原吉郎さんの詩を読んだ時のような静謐な感覚を覚えた。

 詩的と感じた理由のひとつは、戦争映画にも関わらず、血生臭い表現が徹底的に避けられているからだろう。血や内臓はほとんど出てこない。スプラッタな場面が苦手な私も最後まで画面から目を離せなかった。このように戦争を描くことの良し悪しはあるだろうが、この映画のひとつの味になっているとは思う。それから奪略シーンも一切なかったことも気になった。

 また構成が凝っており、イギリスへ撤退する歩兵の1週間、兵士たちを引き揚げるため徴用された船の船長とその息子たちの1日、そして敵軍から船や兵士を守る航空隊の1時間が、並列され、等しく1時間46分という映画の時間に収められる。そしてそれぞれの時間が最後は一点に収束する。主人公の行動に焦点をあてた、ストーリー性を重視した映画ではこのようにはいかないだろう。

 しかし何よりも詩的な要素を高めているのは、この映画の「匿名性」だろう。登場人物たちが名前を呼ばれることはほとんどない。さらに象徴的なのはドイツ軍の描かれ方で、彼らは単に「敵」とされている。そして「敵」の顔が映ることはない。
 この高い匿名性の結果として、『ダンケルク』で描かれた戦争は「天災的」である。
 特に印象深かったのは冒頭の浜辺のシーン。

浜辺ではイギリス軍兵士たちが、船を待つために整列している。と、そこに敵軍の爆撃機が降下してくる。唸るエンジン音。一斉に伏せる兵士たち。機銃による攻撃。飛び散る砂。憐れにも撃たれ、飛ばされる兵士。やがて轟音は過ぎ去り、浜辺には静寂が戻る。すると伏せていた兵士たちは−−撃たれてしまった不運な幾人かを除いて−-立ち上がり、何事もなかったかのように、再び整列する。

 そんなシーンである。「天災的」である戦争で、生死を分かつものは運である。上記のシーン、生き延びた兵士と撃たれてしまった兵士、彼らの間には何の違いもない。ただ少しばかり運が良かったか、あるいは悪かったかの差があるのみだ。
 大いなる運命の前に人間は無力である。ランダムに生死が決まる戦場でヒーローは生まれるだろうか。
 否、とこの映画は言う。
 では、このダンケルクという映画は、ヒーローの代わりに何を描いているのか。それは匿名の、無名の人々の意志である。

 それは故郷への帰還を願う一人ひとりであったり、自分の船で兵士の救出へ向かう勇気ある民間人だったり、自分の命を捨ててでも仲間を1人でも多く助けたいという航空隊員だったりする。
 彼らは大いなる戦争の前に無力である。戦争は簡単に個人を抹殺する。しかしその戦争に立ち向かったのもまた彼らなのである。この映画は、非常な運命に立ち向かっていった無名の人々の映画である。だからこそ戦争映画にも関わらず、多くの人々に支持されたのだと思う。私もこの映画を観て良かったと心から思う。

 戦争映画ってすこし苦手だな、という方にもぜひ見ていただきたい映画。おすすめです。

ダンケルク(字幕版)

ダンケルク(字幕版)

  • 発売日: 2017/11/10
  • メディア: Prime Video