読書録 地方生活の日々と読書

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『はだかの太陽』アイザック・アシモフ【読書感想】

 正月休み前に早川書房電子書籍セールで、SF小説大人買いした。数年前からSFを読み始めた初心者からすると、「古典SF」といわれるような有名どころの小説が安く買えるのは大変有り難い。10冊ほど買ったので、来年1年かけて少しずつ読んでいこうと思う。
 今回読んだアイザック・アシモフ著『はだかの太陽』は、昨年セールで買った鋼鉄都市の続編にあたる。

地球人ベイリ×人型ロボットダニール、再び殺人事件に挑む

 未来の地球人たちはドームと呼ばれる外界と隔離された都市に生活している。外の世界は危険がいっぱい。ましてや宇宙には先進技術を持ったスペーサーたちがいる。
 主人公は地球人の刑事ベイリ。彼は要請を受け、惑星ソラリアで起きた殺人事件を解決するために、決死の覚悟で地球を飛び出す。彼は宇宙どころか、地球の屋外にすらほとんど出たことがないのだ。不安とホームシックを抱え訪れたソラリアで、かつてのパートナー、惑星オーロラ出身の人型ロボットダニールと再会し、再びタッグを組んで殺人事件に挑んでいく。

 筋書きとしては、刑事モノの小説そのものである。ベイリは一人ずつ事件関係者に会いに行き、推論を重ね、その過程で新たな殺人事件に巻き込まれたり、自らの命が狙われたりするものの、少しずつ事件の真相に迫っていく。
 しかしこれはSFである。舞台となっているソラリア社会は、厳密な産児制限により極端に少ない人口が維持されており、少数の人間と多数のロボットにより成り立っている。究極の過疎地域なのだ。そこでは人々は直接会うことなく暮らしている。コミュニケーションは三次元映像によって行われ、子供は妊娠後1カ月の胎児からファームと呼ばれる養育場でロボットに育てられ、夫婦ですら滅多に顔を合わせることがない。人々は他者と会うことを嫌悪し、恐怖しているのだ。
 そんな「人と人とが直接会わない」世界で、何故、そしてどのように殺人事件は起こったのか。

地球人の常識はソラリア人の非常識

 読書の前半、読みながら、なんだかしっくりこないなと思っていた。どうしてだろうと思っていたが、ソラリア人たちの常識が、地球人であるベイリ(と私)の常識と大いに異なるため、一種のコミュニケーション不全が起こっているからかもしれないと思い至った。物語の序盤から中盤にかけて、私にはベイリがやけに怒りっぽくわがままで幼児的に思えた。常識や見えている世界が違う相手に、自分の常識を無理やりぶつけており、会話をするも相互理解に至らない。そのもどかしさが、読んでいる間のしっくりこなさにつながっていたのだろう。
 またベイリが見せた幼児性は、地球人である彼とスペーサーたちの圧倒的な知識量の差を背景にしており、彼の態度はスペーサーたちから見た地球人の見え方(無知で野蛮な地球人)を暗喩しているのかもしれない。
 物語が進むにつれて、ベイリと読者はソラリア社会についての知識を得ていく。それに伴いギアが噛み合ったように、物語は読みやすくなった。ベイリも本来の魅力を取り戻していく。圧倒的な劣位者から、対等な関係へと立場が変化していく。そしてついには、地球人という外部の視点を持っていたからこそ、事件のカラクリに気づき、ソラリア人たちとベイリの立場は逆転する。そしてその気づきは殺人事件を解決するだけではなく、地球をも救うことにつながるのだった。

 私の常識は、誰かの非常識。そんな言葉が自然と浮かんでくるSFだった。常識は絶対ではない。そしてSF小説は「常識」というものを自由自在に変えてみせることで、今まで見たことのないような世界を描き出すことができる素敵なジャンルだなあと思った。

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↑シリーズ前作『鋼鉄都市』の感想文。