読書録 地方生活の日々と読書

趣味が読書と言えるようになりたい。

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国分功一郎『暇と退屈の倫理学』を再々読中【読書日記】

 国分功一郎『暇と退屈の倫理学を再々読している。はじめて読んだのは、発売されてすぐの頃。本書は話題となっており、新聞の書評等にも取り上げられ、書店でも平台で並べられていたように思う。流行に流されやすい私は、「倫理学」という言葉の重々しさに恐れをなしながらも、好奇心に押され手にとったのだった。読んでみると、これがすこぶる面白かった。
二度目に読んだのは、その一、二年後のことだったと思う。私はまだ学生であり、フェリーでの移動の途中の無聊を慰めるために、この本を持っていたことを鮮明に覚えている。客の殆どいない、薄暗い二等客室の絨毯敷きのうえで寝転びながら読んでいたのだった。
 ちなみに過去のブログを見返すと、「暇と退屈の倫理学」の本筋よりも、暇と退屈の起源を探る第二章にて紹介されている「定住革命」に心惹かれていたようである。

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切実な再々読

 そしてそれから4年後、今再びこの本を手にとっている。
 私は社会人となったが、そこで直面したのは、暇な時間に何をして良いのか分からない問題だった。まさに、本書『暇と退屈の倫理学』が課題としている問題である。仕事は、確かに毎日差異はあるものの、結局のところ同じことの繰り返しではないか、と思うことが多かった。転職をして「自分の好きなこと」をしているはずなのに、だ。好きだと思っていたものが、好きではなかったのかもしれない。仕事以外に目を向けても、読書以外に大した趣味もないし、その読書だって飽き飽きしていることがある。読書以外の趣味を見つけようとしているが、なかなかうまくいかない。熱中できるものが何もないという現実。何かが変わるかと期待して結婚してみたが、新婚生活の新鮮さは続かない。結婚は毎日の生活の連続に過ぎない。
 この代わり映えのしない生活を90歳、あるいはそれ以上の年齢になるまで続けなければいけない、という未来。もちろん歳を経れば、考え方は変わるだろうが、今の私には現代社会の勝利である「長寿」が空恐ろしく感じる。あと半世紀以上、どうやって暇と退屈をやり過ごせばよいのだろう。
 
 今、私は学生の頃とは違う切実感をもって、この本に向き合っている。

読書ノートをつけてみる

 そんなこんなで再々読をしているのだが、今回は前回までとは少し違う読み方をしている。読むだけではなく、書く。読書ノートをつけながら読んでいるのである。読書ノートといっても、そこまで複雑なものではない。使用しているのは手書きのノートロイヒトトゥルム1917)。読みながら、見出しと小見出しを書き抜き、そこにキーワードとなる言葉を一つ二つ付け加えるだけである。ときどき感想や疑問点も書き込む。幸いにしてこの本は、小見出しが多く、書くことには事欠かない。小見出しを拾っていけば、議論の流れがある程度わかるようになっている(ただしキャッチーな小見出しも多々あり、それを補うような形を目指して、キーワードを拾うようにしている)。
 書く、という行為を挟むことで読書スピードは、ぐっと落ちた。しかし普段の読書よりも、読書の内容が頭に残っているように思う。ノートを見返すことで、今までの議論を俯瞰し話が進む方向を確認することができることも大きい。議論の中で迷子にならずに、「文字を読んでいるのに、頭の中に入ってこない」ということも少ない。
 じっくりと本に向き合っている感がするし、何よりも暇が潰せる。なかなか良い読書の方法なのではないか。もちろんこの方法を一歩進めて、もっと分析的に読むことも可能だろう。

 現在、全七章のうち、五章の半分ほどまで読書を進めた。毎日読んでいたわけではないが、ここまで読むのに二週間。もう少し、この本と向き合う日々が続きそうだ。

今回は、2015年第1刷の増補新版を読んでいます。